- 9月30日(月) 曇り後午後大雨、風なし 閑話休題 《 ジェームズ・ディーン忌 》
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2013.09.30 Mondayジェームズ・ディーンと聞いても映画ファンでないと知らない人も多くなったが、1955年9月30日、今から58年前のこの日に自動車事故で亡くなった俳優で、24歳だった。
今も長生きしていたら82歳だから、存命の可能性はあるが、ディーンは若くして死んだことで『伝説』の世界に入り、老衰した俳優の姿を見たくないのも事実。ともあれ、私はファンというほどではないが、やはり不世出の映画俳優の命日に当たり一文を捧げる。
写真はセブで買った『Rebel without a cause』のCD。これに『理由なき反抗』と邦題を付けた人物は相当の教養の持ち主と思える。
かつての洋画の題名はこのように意訳されて、それがまた名訳となっていたが、最近は英語の題名そのままに付けるのが多くなって、これは日本人の国語力が落ちたこととも関係があるのだろう。
国語力といえば、話はそれるが最近『キラキラネーム』という日本の言葉を知った。これは子どもの名前に見目良さそうな漢字を当て、読み方を適当に同じく語感良く付ける流行のことをいうが、確かに字は易しいが読めない名前の子どもがやたらに増えていて、今の日本の夫婦の教養度は相当馬鹿なレベルだなと感じる。
もっともこの間、フィリピンで『.com=ドットコム』と名付けた親がいて、しかも弁護士、付けた本人はシャアシャアしているそうで世も末を具現するのは国や教養とは別のようだ。
さて、ディーンの話に戻るが、ディーンは生涯に3本の主演作を残していて最初が『エデンの東=1955年』、2番目が同年の『理由なき反抗』、3番目が遺作となった『ジャイアンツ』になるが、これは亡くなった翌年1956年に公開されている。
このジャイアンツの撮影を終えて1週間後の午後5時59分、カリフォルニア州の州道の交わる分岐点で学生が運転する車と衝突、運転していたディーンは即死状態だったという。この時乗っていたのがレース仕様車の『ポルシェ550‐1500RS』で、アメリカに輸入された最初の4台の内の1台で、色はシルバーだった。
若くして自動車事故で死んだ俳優といえば日本では『赤木圭一郎』を思い出すが、こちらは1961年2月14日、撮影所で昼休み時にゴーカートに乗って誤って倉庫に激突、1週間後の21日に亡くなった事件で、赤木は21歳だった。ディーンの時はまだ幼くて事故のニュースを聞いても分からなかったが、赤木の時はもう中学生だったから、この事件のニュースは良く覚えている。
赤木は当時全盛だった日活の石原裕次郎、小林旭の次代のホープとされ将来を嘱望されていたが、あっけない事故で、ディーンの事故と重なってやはり相当世間では騒がれた記憶がある。
赤木は1939年生まれというから、戦争で疎開をした世代で、今生きていたら74歳、矍鑠と映画の世界で活躍できる年齢であるが、やはり往年の俳優の耄碌した姿など見たくないのがファン一般の心理で、ディーン同様夭折したことが何か天の配剤だったといったら言い過ぎだろうか。
事故というと、写真のCDカバーに共演者として『ナタリー・ウッド』の名前が見える。ナタリー・ウッドは1981年11月29日、43歳の時、海で溺死体として発見され、事故とも他殺ともいわれる状態で現在に至る。最近も殺人事件として捜査し直したらしいが、決定的確証は得られなかったようだ。
ウッドといえば1961年公開の『ウェストサイド・ストーリー』のマリア役は印象的だったが、俳優は作品を残すから不慮の死が余計に印象強くなるのかも知れない。今日のセブは久々の雨が降り、何となく湿っぽく、こういった俳優を偲ぶためにこのCDをじっくり見ることにしよう。
- 9月29日(日) 曇り、風なし 閑話休題 《 セブの建築ブーム考 》
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2013.09.29 Sunday先日、久しぶりにセブ市内を横断するように車で走った。そこで目立ったのは幹線通り沿いでも小規模のビルが建設されていることで、下は店舗、2階から上は貸事務所というのが標準スタイルになっている。
こんなにあちらでもこちらでも貸店舗や貸事務所が生まれて借りる人や事業所があるのかどうか不明だが、どうも銀行が土地を持っている人間に金を貸し付けてビルを建てさせているようで、これはどう見てもかつての日本の『不動産バブル』その物になる。
こういった建物と同様に、セブはマンション建設ブームで、どこへ行っても中、高層のマンションが目につく。写真はセブで一番高級なモールで、写真の側は増築部分で、来月にはオープンするという。
増築前の建物は裏側にあってかなり広いが、それなりに投資しても良い判断で増築しているのだろう。写真の躯体工事中の建物はマンションでモール部分のオープンとは別に工事を進めている。
このモールのある場所は、その昔ゴルフ場だった土地で、今でもその時の名残の大きな樹が道沿いに残っていて、新興の開発地にしては風情を添えている。ところが、この敷地内ではマンション建設が盛んで建設中の建物が5〜6棟見える。
そんなに簡単に売れるのかと思うが、どうも住もうという人ではなく『投資』目的で買う人が多いようで、特に海外に働きに出ている、あるいは移住してしまっている、いわゆる『OFW=フィリピン人海外就労者』が購入層に多いそうだ。
マンション価格が日本円で500万も出せば買える国だから、OFWでも手が伸ばせるのだろう。以前はOFWの送金といえば、まず生活費に教育費用で、次に車を買う、家を新築するというのがパターンだったが、今はこれも一巡して、こういった投資物件に金が動くようになった。
このOFW、どのくらいいるかというと、アロヨの時のほんの数年前は800万人といっていたのに、今は1000万人を超えているという。フィリピンの人口1億人中、労働できる層がその半分として5000万人。実際に働いているのがその半分の2500万人という数字を挙げていくと、OFW1000万人という数字はいかに異常かと分かるが、この国は何とも思っていない。
むしろ、家族の中からOFWが出ると『これで一族の生活、教育は確保された』と当人も周りも祝福するくらいである。そのような訳でこれが良いとか悪いとかいった次元など、遥かに飛び越えてしまっているのがフィリピンという国で、まあ、そこが面白いといえばいえなくはないが。
しかし、私の身の回りを見ても優秀な人材ほど海外に出て行ってしまうケースが多く、これではフィリピンは残りかすだけで動かしているといったら言い過ぎか。まあ、OFWになって同じ仕事の賃金がフィリピンの5〜10倍あるいはそれ以上貰えるなら地球の果てまで行くのは当然であるが。
フィリピンはアセアン域内では最高の成長率7%台を記録しているが、その割には雇用に結びつかず、失業者は私がフィリピンに初めて来た時とそんなに変わらず、ゴロゴロ街に溢れている。
失業していても先に書いた一族のOFWからの送金で食って行けばいいと思っているから、失業に対してそんなに切迫感は持たず、どこの家に行っても親戚関係の居候が2人や3人いる国で何となく生きていられる。こういう中で、フィリピンの不動産のバブルというのはまた違った現象で、簡単に説明できないところもあって不思議といえば不思議な国だ。
- 9月27日(金) 晴れたり曇ったり、風弱し 閑話休題 《 またビールの話で『フィリピンの地ビール』 》
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2013.09.27 Friday
昨夜、フィリピンのビール銘柄はサン・ミゲルの独占状態と書いたが、最近見たマニラで発行するフリー誌『Navi Manila』15号に、マニラで『クラフト・ビール』を生産するグループの記事が載っていたのでそのことを中心に書き進めたい。
【Navi ManilaのHPはhttp://www.navimanila.com/home-page/top-news.html】
写真がその記事で、3ページに渡って紹介されているが、クラフト・ビールというのは日本でいう『地ビール』のことで、サンミゲル一色のフィリピンでこういった企業を立ち上げたことはなかなか面白い。
これからドンドン発展して欲しいと思うが、フィリピンはすぐに隣のやっていることを真似をする国民性があるから、2番手、3番手はもう準備しているのではないかと思う。
この地ビール会社はアキノ現大統領の母校『アテネオ高校』出身の仲間が始めたもので、この学校はフィリピンでも1、2を争う名門校で、富裕層の子弟しか通えない金持ち学校でもある。
そういう背景があるから、金には困らない連中で、ビール作りの初期投資などの資本は親が出しているだろうから、金持ちの息子どもの道楽といった感じもあるが、フィリピンの金持ちの子弟は何もしないで遊び暮らすのが普通なので、まだヴェンチャー精神がこのグループにはあって好ましい。
会社の名前は『カティプナン』と名付けられていて、フィリピンの歴史を少しでも知っていれば革命独立時代の秘密結社名にちなんだと思うが、実際は最初に地ビールを作り始めた場所の通り名がカティプナンだったので命名したとのこと。
写真の下の方にビールの作り方が順を追って説明されているが、材料は麦芽、ホップ、酵母に水の4種類で、単純な材料構成になっているが、そこが酒造りの微妙さ、面白さで様々な味のビールがあるのは承知の通り。
実は私もセブで地ビールが造れないかと興味を持って調べたことがあった。これは再三書いているが、セブ島北部に土地と家があって、近隣の産業といえばトウモロコシを作るくらいしかなく、私なりに『町興し』に色々な産品を物色し、ワインやビールはどうだろうかと思った。
ワインの方は試験的に苗を育てたりしたが、やはり暑い土地なのでブドウを育てること自体が無理と分かった。一方、ビールの材料は上述の水以外はフィリピンにはない材料で輸入ものだから、どこで造っても同じで、場所さえあれば可能な生産品である。
ただし『水』の問題はあって、美味い飲み物は水質が物をいうから、セブ島北部は元々水の豊富な場所ではなく、井戸を掘ってもそう美味い水は出てこない。マニラの地ビールもこの記事では水のことは書かれていなかったが、それなりに解決しているのだろうと思うが。
また、趣味的に作るならともかく町興し的に大量に作ろうとなれば、相当の資金手当てが必要で、そこまでリスクは負えないと思って考えるのを停止させている。それに、前にも書いているが私は酒を飲みたいという人間ではなく、好きでもない酒を造っても仕方がないという気もある。
そこで現在進めているのが『コーヒー』畑で、コーヒーについては美味いのが飲みたいと、執念を持っているが、これはあくまでも個人的なもので他人に飲んでもらおうとは考えていない。
さてマニラの地ビールに戻ろう。現在『カティプナン』と名付けられたこの地ビール、小瓶で1本150〜200ペソで小売りしているという。この値段でも扱う飲食店はあるらしいが、店では300〜400ペソになり、サン・ミゲルが飲食店で1本50ペソ程度で飲めるフィリピンでは相当高く、こうなるとたかがビールとはいえない高級な飲み物になる。
しかし、新しい物好きのフィリピンの金のあるスノッブ連中には受け入れられそうで上手くいくような気がする。実際、世界のこういった地ビールを飲ませる店がマニラには続々出現しているから、安直だった酒飲みの世界も広がっているのも事実。
サン・ミゲル一色のビール業界も少しは変わるかも知れない。こういった話題を知るとセブで地ビール造りを考えてもいいなと思うが、先立つ物は当たり前だが資本と堂々巡り。