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2月27日(水) 晴れ、風やや強し 閑話休題 《 ラオス・ヴィエンチャンに敷かれた鉄道について 》
 ラオスに初めて行ったのは2001年。この時はバンコクのファランポン駅から夜行の鉄道に乗りタイ国境のノンカイまで行き、陸路でラオスに入った。この夜行列車では2人ベッドの個室を利用したが、今は高くなっているだろうが当時は飛行機で行くより安かったのではないか。もっとも夜中に出て朝起きたらノンカイ近くを走っているから景色を楽しむ旅ではなく『走るホテル』といった趣である。

 ノンカイからの陸路はメコン川で最初に架かった『タイーラオス友好橋』を渡ってラオス側に入るが、タイ側とラオス側のミニバスを乗り継いで機械的に国境越えした。当時は国境でヴィザ申請して30ドルを払ったが今は無料となり、この点ではラオスは大きな進歩を遂げた。

 この橋は1994年にオーストラリアの資金で架けられ全長1170mの片側一車線、中央にノンカイから続く単線の鉄道線路が敷かれているチョッと変わった橋になる。しかもラオスの交通法規は右側通行、タイは左側通行になるので橋を渡った地点で右左入れ替わるという面白さ。

 写真は橋を渡り切ったタイ側にある線路の様子(車の通行も既に左右入れ替わっている)で、この線路が橋を渡る前に中央へ寄り、当然、列車の運行時には車の通行を遮断して列車を通すが、今回何度かこの橋を往復したがそういった目には遭えなかった。それもそのはずで、2009年に開通後の今、12往復しか列車は運行していないという。しかも、ラオス側には線路は6キロ余だけの一駅、この駅は『ターナレーン』といい、ヴィエンチャンとはいいながら片田舎で、駅まで行くのが大変という所にある。

 ヴィエンチャン在中にこの鉄道に乗ってみたいと思っていたが、今回は遊びでないのでチャンスは逸した。それでも明日ヴィエンチャンを離れる日に『せめて駅の写真でも』と思い、その日の予定に入れたが車に乗って他の用をしている内に時間切れ。次回のお楽しみとなってしまった。

 この鉄道の将来はラオス国内を北上して、中国南部の鉄道と繋げる計画らしいが、その後の工事が進捗している話を聞かないからどうなっているのやら。ラオスもメコン川沿いには平地はあるが、元々は山岳地帯が多くを占める国で、ヴェトナム戦争中はその地理を活かしてアメリカ軍を苦しめた経緯があって、簡単に鉄道工事は進められないと思うが、中国が西蔵鉄道を敷いた例から考えるほど難しくないのかも知れない。

 ただコストの問題はあり、その辺りで進捗しない理由にもなるが、中国の覇権主義の一つ『南進戦略』を考え、ラオスの中国ベッタリ政策から経済性は度外視して良いのかも知れない。

 メコンに架かる橋と言えば、下流側に2007年、日本のODA2番目の橋が開通している。この橋は『東西経済回廊』と称する国際プロジェクトの一貫で、ヴェトナムの海に面すダナンからラオス、タイを貫きビルマに至る全長1500キロ弱の道路になる。港を持たないラオスにとってはタイ経由より短時間でヴェトナムに出られる。ただし、ラオス側はヴィエンチャンから遥か離れた南部の『サワナケート』を通るのでヴィエンチャンには直接の効果はないようだ。

 実際、サワナケートには特区を設け企業を誘致する計画で、私がヴィエンチャン在中にも日本から工場設立の調査に来た人が『ヴィエンチャンではなくサワナケートに作る』と言っていた。こうしてアジアで最後に残された地域は無造作に開発されて行く。


author:cebushima, category:閑話休題2013年2月, 20:18
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2月26日(火) 曇り、風なし 閑話休題 《 東北からヴィエンチャンへ来た自転車 》
  ラオス・ヴィエンチャンに40日ほど滞在して、先週半ば過ぎにセブへ帰ってきた。ラオスには2001年に妻と行ったのが初めてで、その後2002年、2004年とラオスで活動する日本のNGOの手伝いで行っていて、今回は9年ぶりのヴィエンチャン入りだった。

 10年ひと昔』というから、ヴィエンチャンの様子は相当変わったかと思ったが、建物は増えたが道は変わっていないために街並みに大きな変化は感じられなかった。それでも前回の時、車は少なかったが今回は車が溢れていて9年前の45倍になっているような感じだった。

 その分、舗道に車を平気で乗り上げて駐車する不逞な輩も激増した。車の生産国別では韓国勢が圧倒的で日本車1に対して5以上の割合で、これは隣国ヴェトナムでも韓国勢が伸していてインドシナ半島では韓国パワーが著しい。ただ、よく見ると韓国製中古車が多く、最近、ラオス政府は韓国からの中古車輸入を禁止したそうだから、中古車輸入で相当目に余るものがあったのだろう。

 そういえばフィリピンでも韓国車は多くなったが、多くは中古車で、本来フィリピンはトラックやバスの中古車だけの輸入は認め、乗用車は一切認めていない国だが、どういう訳か韓国製中古乗用車がおおっぴらに出回っている。書類を改竄しての密輸同様で、韓国人は海外ではアウトロー的体質が強くなるのか平気の平左で商売をしている。

 その点、日本人は肝っ玉が小さいのか日本から中古乗用車を網の目を掻い潜ってひと儲けしようとする人物がいないから、誉めて良いような良くないような感じ。こういった犯罪スレスレ商売はフィリピン側の有力者、税関などの役所が何枚も噛んでいるから出来ることで、例えば上院議長のエンリレなど地元に港と輸入特区を作ってそこから堂々と中古車(密輸といって良い)を陸揚げして問題になっているが、アキノでさえ突っつけないからどうしようもない。

 さて、40日間のヴィエンチャン滞在中はホテルからNGO事務所まで写真の右にある赤い自転車で通った。左側に写る建物は40日間泊まっていた老舗ホテルでNGOの顔なのか10分の1の怖ろしく安い値段で泊れた。この赤い自転車は20118月から11月にかけて外国人震災被災者支援のために岩手、宮城、福島3県を回った時に使った物で、ヴィエンチャンで乗れるとは夢にも思わなかった。

 折りたたみの出来る自転車で、支援中は車の後部に乗せて小回りが利いて宿泊地では重宝した代物だった。ヴィエンチャンでは朝晩30分ずつメコン川沿いを往復し、なかなか気持ち良く健康にも良くセブに帰っても自転車に乗りたいとは思うが、セブのキチガイ的運転事情と大気汚染を考えると命あっての物種で無理。

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代の頃は東北、北海道を自転車で一周した経験を持つから自転車には格別な思い入れを持つが、今回何十年ぶりかの自転車生活。さすがに短い距離でも最初は乗った後に階段を上がる時に膝がガクガク。これも10日目ぐらいから平気になったから続ければ身体に良いことが分かる。

 メコン川の堤防の上を朝は朝日に向かって、夕はタイ側に沈む夕陽を左手側に見ながら通ったが、あんな贅沢はなかなか出来ないなとヴィエンチャンの束の間の自転車生活を懐かしむ。




author:cebushima, category:閑話休題2013年2月, 21:08
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2月25日(月) 晴れたり曇ったり、弱風 閑話休題 《 エドサ政変から27年目 》
 今日、225日はフィリピンの『エドサ政変』のあった年から27年目になる。この政変を『革命』と記述する例は多いが、革命とは体制が引っくり返ることであり、フィリピンの場合、体制は温存、権力の立ち位置が変わっただけであり『あれは政変』に過ぎないというのが私の見方。

 というのは、当時私は日本の旧通産省がフィリピンで行っていたプロジェクトに関わりマニラに滞在中、このエドサ政変をしっかり目撃、体験、野次馬していて文献だけの判断ではない。

 この体験談は折に触れて書いているが、こうやって何度も切り口を変えて俎上に乗せることが出来るのが歴史の面白さでもある。225日はコラソン・アキノが大統領就任を宣言し、マルコス一族、取り巻き連中がハワイに逃げ出した日で、国の正式な祝日にはなっていないが全国の公立学校は休み、モールなどにはそんな政治案件など全く関係ないと生徒、学生で溢れていることであろう。

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年前の騒ぎでは、マルコスからアキノへ怒涛のように転向した変わり身の早さ、したたかさをフィリピン人に感じたが、それは今も変わらず笑顔以上の『国民性』といって良いだろう。この国民性もスペイン時代から始まる植民地根性の賜物と言ってしまうと身も蓋もないが、それに加えて爆発的な人口爆発(ちなみに私が初めてフィリピンに来て仕事をしたのは1984年、その頃のフィリピンの人口は5千万人台だった。今は1億人を伺う)、弱い国が生きるためには仕方がない性なのであろう。

 エドサ政変以降フィリピンは変わったのだろうか?。海外からの送金や数字上の経済成長率は好調で消費文化は進み、1300ペソを超える日本のラーメン屋が盛況なように(1日ラーメン1杯以下の収入の人は珍しくない)裕福に向かっている感じは巷にあるが、昔から続いている一部だけの恩恵で、底の方は相変わらずそのお余りに乗っかっている感じは否めない。

 それを証明するように相変わらず失業率は高く、政府発表の10%台の数字はまやかしで実際の失業者(失業状態)は3人に1人はという感じで、30年近く前に来た時、フィピン人はほとんどが失業者じゃないかと感じたがあまり改善されていないようだ。しかし失業していても何とか食っていける社会構造は強固に続いているから、私のような外人があれこれ論うこともないのかも知れない。

 さて、27年前、マルコス側に立って反政府側を弾圧した軍、警察の若手連中は既に5060歳代。多くは幹部になって息子のアキノ政権を支えているが、こういった変わり身の早い連中は『命令だからやった』と言い訳をするだろうが、歴史の中でこういった言い訳が断罪された例は枚挙に暇がない。

 エドサ政変の立役者、国軍参謀長だったラモスは後に大統領、その後はフィリピン人には珍しいスタイルを保ち権力への執着は少なかった。また国防長官だったエンリレ、これは権力欲丸出し、80歳を超えて今も上院議長。ようやく引退するが今度は息子を身代わりに立候補させた。また、実行部隊のホナサン中佐、これは現上院議員で今度の上院選で再選を狙っている。

 一方のマルコス一族、イメルダは下院議員、息子は上院議員、娘は州知事、さんざん美味しい汁を吸った取り巻き連中も実業界に復帰、隠然たる力を保持している。こういった経過を見ると、一体フィリピン人は何を政変で学んだのかと言いたくなる惨状でこれがリアルなフィリピンの実情。

 最後に27年前の政変は首都圏を舞台にしたが、このセブはどのような動き、呼応があったのか興味深い。これからボツボツ話を集めたいが、聞くところによると『あれは中央の話、動き』とセブは盛り上がらなかったという。【写真は現在のマニラ国際空港第3ターミナル近辺。27年前は第2ターミナルもなく、政変時には近くの空軍基地で撃ち合いがあった】


author:cebushima, category:閑話休題2013年2月, 16:57
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