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3月30日(金) 晴れ、軽風 閑話休題 《 切られそうになった樹 》
 セブ市から車で北上すること2時間半近くの町に小さな小屋を持っている。年に数回しか行かないが、その内つまらぬ都会のセブからここへ引っ越ししようと考えている。

 写真はその小屋の前を走る国道風景で、先日久し振りに行ったら沿道の両側56mおきに花が植えられていた。写真でも黄色く塗られた竹の囲いの中に蔓性の黄色い花が植えられているのが分かる。

 この町はトウモロコシを作るのと漁業くらいしか産業といえるものはなく、以前はニッパヤシの屋根に竹の壁といった伝統的な家屋を多く見かけたが、行く都度にブロック作りの家が目立つようになった。家が新しくなるのは家族の中に船員として働いている者がいる一家で、その送金で生計を維持し、特にこの町は海外で働く船員を多く輩出している。

 さて、写真にはコンクリート道沿いに道路にかぶさるように樹が並んでいるのが見える。この樹が小屋の敷地の境界になるが、樹種は『ジェミリーナ』で、10年以上前に植えた。

 手前に太く写るのは直径50センチ近くあって、ジェミリーナはこれで分かるように成長は驚くほど速く、フィリピンでは植樹が盛んに行われ家具とか建材に使われている。しかし、成長が速い分、樹としてはスカスカ、時間と共に痩せるので用材のグレードとしては5段階評価なら最下位の1か2といった所である。

 先日、小屋に滞在中、役場の人間がやって来て『この樹を切る』という。その理由は国道沿いの1mだか2m以内に生えている樹は切ると町が決めて、しかも切ったこの樹は役場で使うという。これらの樹は敷地内に植えてあるから、何にも問題ないと思うが、やってきた連中は従わないなら勝手に切るとまるで泥棒のようなことをいう。

 公道にはみ出た枝は切られても仕方がないが、私は前面に出ず妻が応対していたが、いうことが居丈高でどうしようもない連中である。連中が帰ってから近所の者に聞くと『町のいうことを聞かないと脅されるからいうことを聞いた方が良い』という。

 『銃』による脅しがフィリピン中津々浦々蔓延している風土を垣間見たわけだが、この町の町長は3期連続やって、連続4選は禁止されているので日本人との間で作った息子に1期に譲って、この間の選挙でまた町長に返り咲いている。

 息子はうまい具合に州議会議員に転身して一族のこの地域での政治的権力は盤石、住民が恐れるのは最もだが、この間の選挙では町中心部では対抗馬に票数で負けたというから、それなりに見ている人は見ている。

 用があって役場に行ったら公園の整備に金をかけていて、沿道の花を植えることといい、もっと他に金を使う所はあるだろうと思うが、為政者以下、取り巻きはそういった見かけの仕事が進むことによって得意なのだろう。

 さて、その後の樹の行方だが、セブに帰って弁護士事務所の者に電話をさせたら、横柄だった連中は謝罪しどうやら切らなくすみそうだ。



author:cebushima, category:閑話休題2012年3月, 21:00
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3月29日(木) 曇り、未明雨 微風 閑話休題 《 廃校になった都会の小学校 》
 この間、日本最古の木造校舎で有名な岡山県の小学校で最後の卒業式が行われたニュースがあった。今年限りでその小学校は廃校になるが、日本の人口が減少していく状況では全国的に廃校される学校は多いのではと思われる。

 昨年震災支援で東北を回った時、廃校になった学校へ何か所か泊り込んだが、どこも山間部の過疎地の廃校となった学校で、それらがいずれも金をかけた新しい立派な施設であったのにはビックリした。

 学校の廃校は地方だけではなく、都会でも行われその原因はやはり子どもの減少で、写真は私の出た小学校跡の午後の様子で金属の柵が立つ所に校門があった。正面に塔が見えるがその右奥彼方には今はない『お化け煙突』が見えた。

 お化け煙突とは正式には『東電・千住火力発電所』のことで隅田川の畔にあり、4本並んだ煙突が見る方向によって1本になったり2本なったり様々に変化することから名付けられた。子どもの時は当たり前に家々の軒から見え、特にその変化が顕著だったのは常磐線に乗っている時で、ダイナミックに変化を見せた。

 今思うと、上野の山の博物館なども電車の中から良く見えたから当時の東京は眺望を遮るビルがなく、そういったビルが増えたのは東京オリンピック以降になる。このお化け煙突は1963年に操業停止、翌年に取り壊されてしまったが、近くの公園に解体した煙突を利用した遊具があったような気がするが今はどうなっているだろうか。

 さて、この小学校の廃校後、敷地はそのまま野原のように更地にして、住宅密集地なので何かの災害時に避難する場所と確保している。廃校の原因はやはり子どもの減少だが、私が通っていた当時は近所にたくさん小学校や中学校があったが、これらも次々廃校、統合されてしまった。

 元小学校の校門の左右には桜の樹があって、文字通り入学式や新学期は桜の花を見ながらだったが、今はなく、他に桐の樹もたくさんあったが皆切られていた。

 校門に向かって右側はかつての本屋兼文房具屋で、ここで『少年』や『冒険王』といった付録で膨らんだ少年雑誌を買ったし、左側は当時と変わらない畳屋が健在。この挟まれた校門前広場で放課後時に物売りが店を広げていて『型粘土』『樟脳船』『飴細工』など今は消えてしまった遊びに夢中になったが、塾などに通うのはごく少数でおおらかな小学校時代だった。

 中ほどに細い樹が囲んで植えられているが、その辺りが野球の投手位置で陰になっている左がホームベースだった。小学生時代は背番号34を付け(弱小国鉄スワローズの金田と同じ)ピッチャー、4番を打って結構没頭していたが、中学校に電車で通うようになったら野球とは縁が切れてしまった。

 陽の陰り出した時間、かつて野球をしていた所では男の子が数人サッカーボールで遊んでいて、もう野球などする子はいないのかと思った。かつての校庭の隅に石碑があってそこには『昭和56年 50周年記念』とあったからその後まもなく廃校となったようだ。もうその頃は既に私は海外に出ていたから帰ってきて廃校になった話を聞いてもあまり惜しいとは思わなかった。


 
author:cebushima, category:閑話休題2012年3月, 22:01
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3月28日(水) 曇り、軽風 閑話休題 《 地元の街を歩く 》
 3月初めに日本へ行った時に、生まれ育った町を寒い中歩いた。

 写真は実家近所にある商店街で、舗道にタイルなどを敷き詰めて小奇麗にしているが、昔の人で溢れたような活気はない。

 商店街に『大門』とあるが、これは手前側の道を右手方向に行くと『遊郭』のあった一角があり、同業種の吉原の大門を習ったようだ。遊郭と書いたがいわゆる『赤線』になり、子どもの時はその中を通り抜けて、荒川放水路へ行って遊んでいた。

 1958
年(昭和33年)に売春防止法が施行されて赤線は廃止され、この一角も廃止へ向かったが、艶めいた建物や飲食店があり、その前で客を引く女の人の姿など子ども心にも覚えている。

 今、その時代の名残りでもないかと歩いても全く残っていなくて、わずかにきっちり区画された道路だけがその時代を忍ばせる。相当前にカメラで赤線跡の目につくところを撮ったことがあって、その頃のネガでも出てきたら面白い物があるかも知れない。

 さて、写真の説明に戻るが、左の角には茶色いタイルのビル、以前は『豆腐屋』だった。この豆腐屋の主人は小学校時代の同級生で、放課後には店の奥で遊んだりした。彼は家業の豆腐屋を継いだが、若くして亡くなってしまい、小学校時代の彼と良く相撲を取ったがその粘り腰の思い出が残る。右角は割合有名な和菓子屋だったがシャッターが下りていて、商売を止めたのかと気になるが、まだ朝早かったから閉めていただけかも知れない。

 この商店街の左側が通っていた小学校の境で、夏休みには当番で早朝にほうき片手にこの道まで掃除をしたが、今はそんなことはやらないようだ。今思えば『社会性』や『公徳心』を養うには道路を掃くなどは絶好の夏休み行事だったが、そんなことは別の人間がやれば良いと思う時代、保護者の時代だから無理な話だろう。

 と偉そうに書いているが、朝早く起きるのは子どもの時は苦手で、この早朝掃除は嫌だったが集合場所が実家の前だったので否が応でも起こされてしまい、嫌々出ていたのが実態である。

 そういえば当時の小、中学校では校内の掃除は各クラス交代で行っていたが今はどうなっているのだろうか。トイレ掃除など誰も好まないが私などは結構サボりもせずに掃除した記憶がある。業者任せが当たり前の時代になっているのだろうが、ゆとり教育などという前にこういった掃除をやらせた方がよほど効果はあると思うがどうだろうか。

 話は脱線したが、実家に帰ると若者が連れ立って歩いている姿が目につく。実家の近辺は老人村といわれるくらい年寄りの住んでいる地域だったが、いつの間にかこの地域に大学キャンパスが引っ越し、あるいは新設され、そこに通う学生の抜け道になっているのが分かった。既にこの地域には5大学もあり『世の中どう変わるか分からないなあ』と学生を横目にしてすれ違うことが多い。


 
author:cebushima, category:閑話休題2012年3月, 11:50
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