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フィリピン事件帖 2012年 (3) あるジャパユキの死

 マニラの邦字新聞に載った記事から引用する。見出しは4本、『元エンターテイナーの比女性』、『新2世ら子供3人残し急死』、『豊かな日本生活から一転』、『薬物、墓暮らし、生活苦…』と週刊誌的な付け方である。

 かいつまんで記事の内容に想像を交えて書くと、亡くなったのはブラカン州出身の46歳(仮にAとする)。Aは生を受けてすぐに児童養護施設に預けられたから、相当複雑な出生事情を持ち、13歳の時施設を出奔。21歳の時、日本就労を斡旋する手に乗って渡日、栃木県の店で働きだす。

 A
12歳から21歳まで何をして生きていたか分からないが、恐らく水商売の水に浸かっていたから日本行となったのではないか。

 勿論、最初から『不法滞在』で、1995年ヴェトナム人との間に男の子を産む(現在16歳)。2年後に別のヴェトナム人との間に男の子を産む(現在15歳)。普通は日本人の愛人になるが、Aは相手がヴェトナム人というのが目を引く。恐らくこの2人のヴェトナム人も不法滞在だったのではないか。

 2
番目のヴェトナム人は帰国(1番目のヴェトナム人はどうなったか不明)、2人の男の子を抱えてAは背に腹は代えられず日本人の愛人となり、2002年まで同居。その間に女の子が生まれたが(現在12歳)、もちろん認知などはされていない。

 相手の日本人は小金のあったタイプなのか、Aに金は不自由させなかったようで、それに慣らされたのか女性は浪費を覚え、数百万円の借金を重ねて浪費を続けた。結局、この借金のトラブルで日本人とは別れる。

 その直後に別の日本人から一緒にフィリピンで住もうと持ちかけられて、200212月にこの日本人とフィリピン入り。勿論、Aは子ども3人を連れての強制送還措置で、この日本人が何を考えていたのか分からないが、こういう前後を考えない日本人は結構多く、案の定この男、やはり子ども3人も居る女性とは上手く行かず別のフィリピン女性とくっついた(こいつは今何やっているのだろうか、もう日本に帰ったか、流行の困窮邦人入りか)。

 A
一家は途端に貧窮、それまで住んでいたアパートを出、やはり背に腹を変えられず、薬物中毒のフィリピン人と同居、自身も薬物中毒者になり、この間、墓地で暮らしたこともあり子供3人は保護施設に預けられている。こう書くとAは多分、男に寄りかかる生き方に問題はあるが、容色良く男の気を引くフィリピーナだったようだ。

 2004
年、マニラで活動する遺棄された日比2世を支援するNGOに助けを求めて、日本人に長女の認知と養育費などを要求したが、Aの借金が片付いていなくて拒否の返事。A一家は首都圏を離れ、洗濯の手間賃などで細々と暮らすが、2011年になって再び、NGOに助けを求め、長女にはNGOから奨学金が出るようになった。

 2012
101日、2日前から頭痛を訴えていたAは近所の助けで病院に搬送されたが死亡、死因は不明。残された3人の子供たちはショックと、葬儀代の工面も出来ず途方に暮れた。NGOは再度、長女の日本人父親を捜し、認知を求め日本国籍取得の道を得るとしたが、見通しはかなり暗い。

 記事の最後は葬儀にかかる費用22千ペソ(約4万円)をこのNGOが募金をしており、その連絡先で結ばれている。日本人との間の『ジャピーノ』、韓国人との間の『コピノ』アメリカ人との間の『アメラシアン』と、フィリピンには置き去りにされた子どもが数万人単位(一説には10万人以上)で存在し、今回のAのようなケースはフィリピンには無数ある。

 【写真は記事とは関係ない宮城県石巻市内の飲食街にて。正面の店は石巻で津波被災後最初に営業を再開した店として有名でマスコミにもずいぶん取り上げられた】


author:cebushima, category:フィリピン事件帖 2012年, 10:55
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フィリピン事件帖 2012年 (2) 72歳の邦人受刑者、刑務所側の怠慢で死亡
 違法就労斡旋の罪でマニラ首都圏ニュービリビッド刑務所に収監されていた、京都出身の男性が110日未明に亡くなった。享年72

 この刑務所は今の名称になる前は『モンテンルパ刑務所』と知られ、戦後は日本人戦犯が収容された。中でも絞首刑の第14方面軍の山下奉文大将(1946223日執行)、銃殺の第14軍の本間雅晴中将(194643日執行)は有名で、近年まで山下の刑場跡にはマンゴーの樹があった(写真は東京多磨墓地にある山下奉文の墓)。

 また1952年に収容中の戦犯将校が作った『ああモンテンルパの夜は更けて』を渡辺はま子が唄ってその存在が人口に膾炙、それをきっかけに日本人戦犯釈放運動が起こり、1953年、当時のフィリピン大統領キリノによって多くの戦犯が特赦されたという日本に縁の深い刑務所である。

 今回獄死した邦人は心臓や前立腺の持病を抱えながら10年に及ぶ刑務所生活に耐え、70歳以上の受刑者には大統領特赦で釈放される制度を利用して手続き中で、この2月には出所できるのではと見られていた。しかし、16日に体調が急変、刑務所内の病院に運び込まれた。

 病院とは名ばかりで見かねた同刑務所に収監中の日本人が当局に直訴し、刑務所外の病院に移送する手続きが取られた。フィリピンの刑務所は金がないとどうにもならなく、逆に金さえあれば何でも可能という評判のある場所で、今回の病院移送でも亡くなった邦人の親族が私費で手配した。

 ところが、手配した救急車は遅延、また刑務所病院の当夜の担当医が深夜に至り、勤務時間が過ぎたといって救急車をキャンセル、帰宅してしまう無責任さのため、72歳男性はこの1時間後に心臓発作を起こし死亡した。こういった『フィリピン側の不手際さえなかったら、命を落とすことはなかった』と、収監されている日本人は強く憤っている。

 この手の邦人死亡では在比日本大使館に保護義務があって、生前の男性に対する特赦に向けての保護業務は常になく担当者は動いたらしいが、間に合わなかった。殊更に日本大使館がいつもより動いていたと強調されるのは、日本大使館がこういった困窮邦人に対して通り一遍の対応しかしてこなかった証拠との指摘もある。

 死亡した男性はいわゆる組関係の出身で日本とフィリピンの間を往復し、配偶者はフィリピン人で結婚生活は27年に及ぶというから、日本がフィリピン人を芸能活動と称して食い物にしていた時代、最盛期にかかわっていたある意味では幸せな時代を経験した日比結婚組といえる。

 このようにフィリピンで亡くなった邦人の場合、フィリピン内の身内は不明、日本側の身内は関わりを避けるなど無縁仏状態になってしまう例が多いが、今回の場合、配偶者を含めて奔走したようだから獄死した人物も少しは浮かばれるのではないか。


 
author:cebushima, category:フィリピン事件帖 2012年, 15:57
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フィリピン事件帖 2012年 (1) マニラ国際空港で、邦人が警官から金を奪われる
 事件があったのは日本とマニラを結ぶフィリピン航空が独占使用している第2ターミナル到着口前(写真近く)。

 被害にあったのは19日、成田から搭乗したフィリピンには出張4度目の40歳男性。

 男性は出迎えの車を待つ間、灰皿の置いてある場所で喫煙していたところ、警官の制服を着た3人組から『ここは喫煙禁止区域だ』と因縁を付けられた。男性はこの3人組に対して相手にせず、出迎えの車に乗り込んだ。

 ところが乗り込んだ車の後を3人組は一般車両ナンバープレートを付けた車で追いかけ、空港から数分行った交差点で邦人の乗った車に停車を命じた。停めた車に対して3人組は邦人を後部座席に移動させ、運転手の横に1人、運転手のドア外に1人が立ち、『罰金』と称して5万ペソを要求した。邦人が断ると財布を強奪し、1万円札2枚を抜き取り3人組は他に危害を加えず去った。

 これに対して邦人は空港警察に被害届を出したが、ナンバープレートの番号が明らかなのに、警察側は陸運局に照会することを渋り、また3人組が胸に付けていた名札から2人の名前が控えられているのに警察は『フルネーム』ではないことを理由に警察官名簿を当たることを避け、身内を庇う態度でいる。

 フィリピンの警官は犯罪者と紙一重で、一番危ない存在認識した方が良く、身内の犯罪行為に甘く『みんなつるんでいる』との指摘もあり、今回の事件を警察側では初めての出来事といっているが、実はこの手の警官による訪問外国人への恐喝は多く行われているようだ。

 特に言葉の不自由な日本人、韓国人は狙われ易く、たまたま今回の邦人が被害届けを出して明るみになっただけで、泣き寝入りのケースは相当あると見られている。こういったたちの悪い警官は『外国人は被害届を出したくても、帰りの便の都合で出せない』と読んでいて、犯行を重ねている。

 実際、今回の事件にあった邦人は5日しか滞在せず、被害届を本人名、滞在先もその通りに記入したが、内通されて警官による仕返しが怖くて宿泊先は別にしたという。

 フィリピンは観光客誘致に躍起になって観光客対象の『ツーリスト・ポリス』を設けて、各地に増員しているが、こういったその国の表玄関口で警官による恐喝が白昼堂々行われている実態に目を向け、甘い宣伝ではなく根絶させる必要がある。


 
author:cebushima, category:フィリピン事件帖 2012年, 17:45
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