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1月31日(火) 晴れ、微風 閑話休題 《 フォルクスワーゲンのあるレストラン 》

 あまり外食をしないが、買い物ついでに新しくできたレストランへ行った。

 このレストランは最近できたショッピング・センター(モール)内にあるが、モール自身の客足はいまいちで、レストラン街として客を集めたいこのフロアーのテナントは半分も埋まっていない。進出しているレストランもファーストフードに毛が生えたような店ばかりで、本格的に食事を取るには物足りない。

 写真の店は最初メニューを見て内容を見たが、肉や魚中心のメニューであまり気を引く料理ではなかった。それでも、店内に本物のフォルクスワーゲンが置かれていたので物は試しと入った。

 以前に何度も書いているが、私は昔からワーゲンに乗っていて、初代のワーゲンは日本で、2代目はこのセブで乗っていた。初代の制作年が1962年、2代目が1969年と記憶している。初代は15年ほど乗ったが、毎年の車検が必要なことと、ボディーに穴が開いてきたのでスクラップ処分にしたがそのスクラップ屋の前を通る度に嫌な気持ちを抱いたものだった。

 セブでは20年、30年経ったワーゲンは普通で、嬉しくなってすぐに購入、途中でレストアしたりしてやはり15年以上乗って、数年前に海外で仕事をするため知人に処分している。その海外の地でもワーゲンに乗ろうと探したが案外とワーゲンの姿は少なく手に入らず、やむなく韓国車の4WD車に乗っていた。といってワーゲンと縁が切れたわけではなく、ワーゲンのミニチュアの収集は続けていて、500台以上は集めた。

 さて、このレストランだがワーゲンのドアに50と書いてあるように、1950年代のアメリカの雰囲気を出すために古そうな写真や看板などを飾っていて、写真右奥に写るSHELLのロゴが入った黄色い物は冷蔵庫である。屋根を切り取ったワーゲンにはテーブルがあって、そこでも食事が取れる。

 ワーゲンの奥がオープン式の厨房だがフィリピンでは珍しい。厨房右で調理しているのが中国系のオーナー兼調理長になるが、彼は料理学校を経てこの店を作ったようだが、中国系の金持ちの息子で、こういった店など若くて出すのは親に頼めば何でもないのだろう。それでもこういった息子が自ら包丁を握るのは珍しく、出てきた料理は悪くない。

 どこか教科書通りの味、飾り付けを感じたが、このままこの青年が飽きずに包丁を握っていたら良い店になるのではと思った。もっとも客に出す料理を作ったら、バーカウンターでパソコンをいじっていたから真面目にやる気があるかどうか分からない。ここは珍しい外人が食べているのだから味の感想など訪ねても良いと思うし、私も感想を伝えたいと思った。

 妻と二人でサラダ、肉と魚料理3品で1000円少々、値段も安い。また来たいと思うし、このまま他に支店を出すような色気を出さずに営業を続けて欲しいものだ。


 

author:cebushima, category:閑話休題2012年1月, 16:41
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1月30日(月) 晴れ、微風 閑話休題 《 金子光晴とマレイの旅 》
 詩人・作家の『金子光晴』のニュースを見てこれを書く。金子光晴といえば『マレー蘭印紀行』が有名で、私もずいぶん前に読んで熱帯地帯を当てもなく歩く旅に憧れたものだった。

 本の題名はマレーとなっているが『マレイ』ではないかと本を調べたらやはり『マレー』だった。

 金子が当時蘭印と呼ばれていたマレー半島を旅したのは1928年(昭和3年)で、もう80年以上前の時代になる。最初は妻の森三千代(作家)とパリへ行く予定だったが金がなく、上海に取りあえず渡って苦労して一人分の旅費を工面、妻を先にパリへ旅立たせてから一人でシンガポールに行ってから金子の旅は始まる。

 この時の上海、シンガポール暮らしでは春画を書いて金を得ていて、その絵もずいぶん残っているが、20歳の頃、東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に数か月在籍したことがあるから、絵として見せるが春画というところに面白さがある。

 先年、私と妻はマレイ半島を鉄道に乗って縦断したことがあって、金子の足跡を追ってみようと計画したが、飛行機がクアラルンプール発着だったので、当初のシンガポールーバンコクまでの鉄道の旅を諦めてクアラルンプールーバンコク間の旅となった。金子のマレー放浪で良く書かれているのはシンガポールから北上する町々にあって、そういう意味では無理してでもシンガポールから旅をした方が良かったと今でも思う。

 特にシンガポールからクアラルンプールの間、内陸にある『Batu Pahat=バトゥバハ』の町には金子が滞在していた建物が現存していて、足を運びたい所である。この建物は昔の日本人倶楽部があって、写真を見ても角地の3階建て、屋上にはドーム状の塔があってなかなか趣のある建物で、今にも金子が着流しでヒョイと顔を出すような雰囲気を持つ。

 建物の前には金子が朝食を取った店がまだあるというから是非とも行きたい町である。金子がいたこの時代は昭和初期の不況で、中国大陸には開拓、ひと旗組が渡り、南方には殖産で小さな島にまで出稼ぎで日本人は入り込み、『からゆきさん』の哀歌が伝わるのもこの時代である。バトゥバハは鉱山や農園などの開発に携わっている日本人が多く、日本人倶楽部も自然に生まれていたのだろう。

 掲載の写真は同じマレイシアでもマラッカで撮ったものだが、赤い提灯が下がりチャイナタウンと間違えそうだが建物はマレイの味を醸し出している。マレイシアはマレイと中国、インドなどが混交した国で、タイなどとは違ったエキゾチックさがあり、どこに行っても戦前の古い建物と街並みが残っていて興味をそそられる。マラッカは世界遺産に登録されてから観光客が押し掛け、だいぶ俗化しているようだがまだまだ、古き時代の面影は残されている。

 私の知人で文学などあまり興味のないのがいて、この人物が先年、金子光晴の足跡をたどって旅をした便りがあった。こういう文学とは縁のなさそうな人物でも金子光晴とマレーの組み合わせは時代を超えて引き付ける物があるのだと思った。


 
author:cebushima, category:閑話休題2012年1月, 17:29
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1月29日(日) 晴れ、微風 閑話休題 《 文庫本 『東電OL症候群』 》

 前作『東電OL殺人事件』佐野眞一著の続編『東電OL症候群(シンドローム)』。

 東電OL殺人事件とは被害者が東京電力本社で初めて女性で採用した幹部候補生であり、殺害された1997319日の時点で副室長だったから本社の課長位の地位に相当する(逆に女性の社会進出といっても90年代の大企業はそんな程度と分かる)。

 ところが仕事後に渋谷円山町界隈で何年にも渡って売春をしていて殺され、その数奇な裏表が随分話題を呼んだ。犯人として不法滞在のネパール人が捕まり、一審は無罪だったが、控訴審で逆転有罪、上告審では棄却となり無期懲役刑が確定。被告は冤罪を主張し何度も再審請求がなされ、著者佐野眞一もこの事件の捜査と裁判の矛盾、問題点を突いている。最近、DNA鑑定で真犯人は別にいると指摘され改めて焦点が当たっている。

 本書で被害者名を『渡邊泰子』と記されていて、この平凡な名前はどこにでもいる印象を与えるが、バブル期を謳歌した世代でもあり、灘校に次ぐ最難関の慶応女子高から慶応の看板、経済学部に進んでいる。勉強は出来たのだろうが、単に頭の良い子で生きてきたような感じもする。父親も東電に勤務していて重役間近で病没、これが彼女の生き方に影響を与えているというが全ては闇の中である。

 殺された時は39歳で今生きていればもう53歳、そのまま東電に勤めていれば部長以上の役職に就いていたのではないか。ただし、被害者が売春に走ったのは会社の本流から一時外されたのと関係があるのではとの推測もある。そうやって読み込んで行くと被害者の当時の上司は、2012年のこの世で福島原発災厄を引き起こし、無責任な発言と言い訳をいっていた連中の名前が出てきて、被害者が生きていたら会社の上級幹部としてどのような意見、言い訳を吐いたか興味を抱く。


 実際、被害者は原発を含む電力政策に関わっていたようで、最近になって被害者は原発反対のためにヤクザによって謀殺されたなどの珍説も出てきて、事件後15年経っても話題に事欠かない。さて、この事件、佐野眞一の2冊の著作を読めば明らかに『冤罪』と分かる。私がそう思うのは犯人として逮捕されたネパール人が、死後11日目に遺体が発見されたアパートの部屋の隣のビルの一室で10日以上も普通の生活を送っていた点など、どう見ても殺人を犯した人間の心理として不自然で犯人ではないと思った。

 ただし、見方というのは立場で変わり、見解の相違などという便利な言葉もあって、公判では一応もっともらしく理由付けられて有罪としているが、どうもネパール人犯人説には不自然さがあり、人を人が裁く裁判の難しさも本書では良く分かる。

 症候群(シンドローム)と表題にあるのは、この事件をきっかけに被害者に対する共感、情念を指し特に女性には理解者が多いようだ。今でも犯行現場となったアパートなどはあるらしく、今度日本に行ったら現場を訪ねてみようと思っている。


 

author:cebushima, category:閑話休題2012年1月, 17:09
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