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12月30日(金) 曇り、微風 閑話休題 《 アメリカからのクリスマス・プレゼント 》
 クリスマスを数日過ぎてからアメリカの知人より本のプレゼントが届いた。

 写真はその本『Porsche』で、ポルシェ歴代の車が古い写真と共に解説されていて、年の変わる直前の落ち着かない気分の中、眺めているだけで気は休まる。

 ポルシェという車の存在を知ったのは高校生になった頃で、同級生でやたらポルシェに詳しいのがいた。その影響から私も興味を持ったが、当時のポルシェは今のような派手でつまらないデザインでなく、地味でいて存在感のある『356』シリーズが走っていた。

 開発した人物が『フェルデナンド・ポルシェ』、同人物がデザイン・開発したのがカブト虫の愛称で知られる『フォルクスワーゲン=VW』になる。

 とても手に入らない値段のポルシェは諦め、初めて持った車がVWで、お尻の丸いデザインが好みとなり、フィリピンに住むようになってもVWを手に入れ長く乗っていた。VWは『貧乏人のポルシェ』という異名を持つからそれなりに私にはお似合いだった。

 フィリピンは中古車天国で、10年落ち位はまだ新しく、20年、30年前の車が普通に走っている。こちらで乗っていたVWの生産年齢を数えたら既に40年を超し、まだ現役だから日本辺りの車感覚とはだいぶ違っている。

 さてポルシェの話に戻るが、この本の中にも写真入りで書かれている『ジェームス・ディーンとポルシェ』の話は有名である。ディーンはたった3作しか主演映画を残さなかったが、遺作となった『ジャイアンツ』撮影終了1週間後の1955930日、ポルシェを運転中に事故を起こし24歳の命を閉じた。

 ディーンの乗っていた車は長い間、前記シリーズ中の『356-スパイダー』と思っていたが、今回の本を見てそうではなく『550-スパイダー』と分かった。ディーン生きていたら80歳を越し、早逝もまた天の配剤かとも考えるがどうだろうか。

 また日本で自動車レースが鈴鹿サーキットで行われた黎明期、レーシング用に開発された『904』の記事を見て、この車は第1回に出場して華々しく鈴鹿で優勝したと思っていたら、この車は第2回の出場と分かり、記憶というものは当てにならないなと思った。904の地を這う流線型デザインは、当時箱型デザインの目立つ車の中でびっくり、憧れたものだった。

 冒頭の方で今のポルシェ・デザインはつまらないと書いたが『356』の次のシリーズ『911』はまだ良かった。もっともこの911もターボ何とかとなると醜く911も初期までになるだろう。セブも最近はポルシェの姿を見かけるが、走らせる道がないのでポルシェを持つのも見栄、宝の持ち腐れの感を持つ。



 
author:cebushima, category:閑話休題2011年8月, 14:29
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8月14日(日) 雨、軽風 閑話休題 《 本日、日本に行きます 》
雨の午前中 本日深夜(正確には15日になるが)日本に行きます。

 東日本大震災被災者支援のため3ヶ月間、東北地方を巡回します。

 この様子は機会を見て本ブログで書きますので、興味のある方は左にあるバナーをクリックしてください。

 朝方は曇りがちの天気だったが、今は俄かに暗くなって大雨、天候の変化の激しい午前中となった(と書いていたら雨は小やみになった)。

 お盆休みを利用して日本から来た観光客もこの天気ではホテルに閉じ込められてしまうが、そのホテルもリゾートといいながら天候の悪い時の対応は全くないから室内でテレビでも眺めるしかない。

 今回の日本行はセブー仁川ー成田という新しいルートで入る。午前1時半にセブを発って成田に着くのは午前11時半、通常のセブー成田の直行便は4時間足らずだから、べらぼうに時間がかかる。

 航空料金が一番安いことと満席だったのがこのルートを選んだ理由になる。仁川―成田間がエアバス380なので、これに乗れるからまあいいなと思っている。

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author:cebushima, category:閑話休題2011年8月, 11:08
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8月12日(金) 晴れ、軽風 閑話休題 《 マーメイドが太平洋横断に成功した時代 》
太平洋横断を伝える新聞 1962812日、堀江謙一のヨット『マーメイド』がサンフランシスコに到達、94日間で太平洋を横断した。

 写真はそれを伝える毎日新聞社会面の様子で、この快挙が当時どのようにとらえられていたか分かる。

 見出しを順に書くと『ヨットで単身、太平洋を横断』『密出国の大阪青年』『3度のアラシ 94日かかって』『髪ボサボサだが元気』とあり、その下には『人命軽視の暴挙』『国産・自力で初めて』とある。

 密出国云々は日本側の役所とマスコミ論調で、アメリカ側で堀江が『英雄』と称賛されると、コロッとアメリカに倣って英雄扱いとなり、昔も今も日本の役所、マスコミの節操、定見のなさは宿病のようなものと分かる。

 人命軽視の暴挙とコメントしているのは誰だか分からないが、いわゆる当時の文化人、ヨットを知らない人間のコメントだろう。人命軽視という語彙は他人に対して使われるのであって、当人に使う言葉としては馴染まず、これは単なる見出しのアヤか。

 当時の日本のヨット界はまだまだ一部のスポーツだったが、太平洋を日本からアメリカへヨットで単独航海する話は、外洋クルーザーに乗るヨット・マンには普通に語られていて、誰かが達成するかは時間の問題だった。堀江はいわば『コロンブスの卵』のようなもので、最初に実行し成功した。

 1962
年の紙面で下欄の広告で顔が出ているのは巨人の川上と思うが、川上は現役を1958年に引退していて、1962年は前年に巨人の監督就任2年目になる。

 いわゆるプロ野球日本一、連続V9の偉業は1965年から1973年までになるが、これがプロ野球をつまらなくしたともいわれるから、何事も強ければ良いとはならない見本にもなる。

 紙面の左上に『法廷に祈りの気持ち』と見出しがあって、これは『三河島事故』裁判の模様を報じている。三河島事故とはマーメイドが成功した同じ年の196253日、常磐線三河島駅構内で発生した大事故で、死者160人を数えた。

 この時、私は京都へ修学旅行に行っていて、泊まっていた旅館で東京に大きな列車事故があったのを知った。時々乗る常磐線だったのでその大惨事には驚いた。この事故を契機に国鉄は自動列車停車装置を全車に導入したが、大事故でも起きないと組織は動かないのは先の中国の高速鉄道事故でも証明済み。

 また、当時の国鉄はプロ球団を保有し名前は『国鉄スワローズ』、万年下位球団だったが鉄腕投手、金田正一が在籍していて常勝巨人を手玉に取る姿には子ども心にも感動させられた。その頃の私は野球少年で背番号34を付けてピッチャーをしていたが、のちに金田がすり寄るように巨人に入団して一気に金田への称賛は消え失せた。

 この他紙面には『奄美の子が東京見物』が載る。奄美から東京へ来るだけでニュースになった時代だったのかと感じいる。

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author:cebushima, category:閑話休題2011年8月, 10:52
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