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続・へそ曲がりセブ島暮らし100景 その100 海風

海風 1年ぶりに10日近く日本に帰り、桜の季節を堪能してきた。4月の東京は陽が落ちると空気の冷たさを増したが、日中はセーター姿で街を歩ける陽気だった。セブのような亜熱帯の地域から帰ると、気温はともかく空気が乾燥しているので、顔から首筋にかけてピリピリとした寒さを感じる。セブはカラッとして過ごし易い気候と思っていても、相当湿気の高い地域だなと思い知らされる。

 いつも行っているリゾートでこの写真を撮った。海風を受けて旗がはためいている光景は、肌で感じる風の生命感を視覚でもとらえる事ができ、見ていても飽きないものだ。
 フィリピンのこの時期は学校の長期休暇に入っていて、海辺には家族連れが多いのも特徴で、この日も普段は見かけない小さな子どもを連れた家族の姿が目立った。このリゾートは入場するのに一人200ペソ(400円)を払うため、5〜6人くらいの家族となると支払う額も馬鹿にならず、普通の生活レベルのフィリピン人には簡単に利用できる場所ではない。
 もっともお金のない層は層なりに大衆的なビーチがあって、そちらで楽しむようになっている。当然シーズン中は人で溢れていて、日本の『イモ洗い』という言葉通りになっている。それでも、めいめいのグループ毎にバーベキューや音楽に合わせて踊ったりしていて、楽しむ心に貧富も上も下もなく同じである。

 カラフルな旗の色を眺めていると、ヨットのセールを思い出させる。それも30台の頃の盛んにやったクルーザー・レースで張ったスピンネーカーの膨らみである。羽のように薄いナイロン地はちょっとした突起物に引っ掛けるとかぎ裂きを作る取り扱いに注意を要する代物だった。
 追っ手(後方から)の風を受けてスピンを張っているヨットの姿は『花が咲く』形容がピッタリするが、それでいて自艇のスピンを張った姿は見たことがない。このスピン・ランは風と共に進むので艇上は無風状態で、吹いている風の割には暑いのも懐かしい。


 
author:cebushima, category:続・へそ曲がりセブ島暮らし100景, 18:00
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続・へそ曲がりセブ島暮らし100景 その99 日本編・桜12選 予科練雄飛会

雄飛会 靖国神社の目立たぬ所で見かけた。戦後生まれの私には旧帝国軍隊の軍制や仕組みなどほとんど分からないが、『予科練』は軍歌『……七つボタンは桜に錨』で馴染んだものを感じる。桜の樹の下に張られた青地に白く染め抜かれた『雄飛会』というのが予科練出身者の戦友会になるのだろう。
 当時血気にはやった20歳に至らない練習生にしても80の齢を数える。座っているのは当事者達らしいが、周りで立っているのは子どもの代になっているのだろうか。
 写真では見えにくいが受付に垂れている紙は24期まで書かれていて、予科練は24期が最後なのかなと思わせる。また、立て看板に隠れているが、推察すると『江田島海軍兵学校82期慰霊祭』ではないかと思われるが、海軍兵学校の年次はそんなにあったのかという気もするし、あったとしたら最後の方の年次になる。

 予科練出身者は、その多くが特攻隊で戦死している。写真の後ろの方に白い新築の戦争記念館ともいうべき建物があって、そこには実際に戦場を飛んでいた『ゼロ戦』が修復展示されていた。
 初期の特攻隊は『爆装』といって250キロ爆弾を抱えたゼロ戦だったが、最後の方では練習機まで持ち出して特攻機としていたから、その貧弱ぶりは眼をおおうばかりの有様である。
 特攻隊は最初の戦果が予想以上だったために、全軍の意志のように形成されていったが、日本の軍隊は『九死一生』が作戦思想であり、『十死零生』という用兵上非合理的な特攻作戦が敗戦まで続けられた。これが作戦中も敗戦後も『外道の戦法』として批判にさらされる事になる。

 靖国神社の満開の桜の下で再開を喜び合う老人達は一体何を語りるためにここに参集してきたのだろうか。
 『死』という厳然たる事実の前にいかなる批判も無力化されてしまうが、真実を後世に伝える事が、生き残った老い先短い彼らの使命であり、懐旧を美化してはならない。
author:cebushima, category:続・へそ曲がりセブ島暮らし100景, 13:16
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続・へそ曲がりセブ島暮らし100景 その98 日本編・桜12選 靖国神社
靖国神社 写っている桜は都内の開花情報を観測する樹で、4本が満開であった。右上に菊の紋章が鈍く輝き、紅白の段だら模様と相まって面白い写真になった。靖国神社と桜は戦前、戦中の軍国主義時代と切っても切れない関係になるが、訪れる人は近くの千鳥ヶ淵、北の丸公園を含んだ桜の名所として来ている人が多い。
 A級戦犯がどうとか小泉の参拝がどうとかいった、政治向きとは縁の薄い感じを受ける。
 境内も普通の神社仏閣と同じで、イカ焼きだとか焼きそばといったお馴染みの屋台風景が続き、女性の猿回しが芸を披露していて、大勢の見物人を集めていた。

 今回、久し振りにここへ来たが、以前は古めかしい建物が時代に遊離するようにあったが、幾つも建物が新築されていて盛んに金を集めている勢いを感じた。
 やはり戦後60年も経つと忌まわしい記憶は浄化されて、再び台頭して来たというべきであろうか。伝え聞くところでは、戦時中の兵隊は『死して靖国神社で逢おう』と互いに誓ったというが、本当に心からそう思っていたか疑問である。
 そういう風にしなければ時代の中で生きていけなかった処世があったのではないか。つまり『集団』の意志が『個』の意志を圧殺した時代はロクでもない時代とはいえる。

 日本の古本屋で戦時中の少年時代を書いた妹尾河童『少年H』を買い、セブに戻ってから読んだが、作りすぎた小説とはいえ、あの時代の空気が平明に分かる好著であった。
 文中の『みんながいっている事は信じてはいけない。少数が正しい事もある』というセリフは、戦中に限らず、いつの時代でも普遍的な答えと言える。
 そういった点から考えると『一億玉砕』の中心だった靖国神社などは、戦後においては、きっちりと総括し責任を持たなければいけない。きちんと出来なかった事にその後の日本人の方向が定められてしまったし、現在の問題が引き起こされている要因となっている。

author:cebushima, category:続・へそ曲がりセブ島暮らし100景, 12:56
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