- 7月31日(日) 曇り、軽風 閑話休題 《 (続)久し振りに行ったカルボン・マーケット 》
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2011.07.31 Sunday
引き続いて『カルボン』の様子を点描したい。
写真は品物を入れるプラスティック袋用品を売る店の中から撮ったが、ほうき売りが何人も店の前の歩道で商売をしていた。
ほうきを肩に担いでいる人物は一帯を廻りながら売っていて、売れ行きはどうかねなどと立ち話をしてまたスタスタと雑踏へ消えた。
こういったほうきはセブ島隣にあるボホール島辺りが生産地で、この島は竹製の製品なども多く作っていて、日本に輸出されるバスケット類はこの島製品が多かった。
私も相当前に、島内部にある市場へ見に行ったことがあるが確かにどれも買って帰りたい製品がたくさんあった。しかし、その後作り手や時代の変化でこの島産のバスケット類は個性を失ってしまった。
カルボンにもそういったバスケット類を売る店が一角にあるが、土産物屋同然の品ぞろえで魅力はない。
前編でカルボンは中国系の店が多いと書いたが、こういった店は昼時には格子戸を閉めて商売を休む。スペイン時代のシェスタでもなく、経営者は中国の福建省出身者が多いから、その地の慣習がフィリピンで残っているのかなと考える。
特に問屋風の店は確実に12時から店を閉め、以前は2時まで閉めていた。しかし、今回行ったら1時半に店を開けていたから、少しは世の中の動きに合わせる気が出たのだろうか。
この昼時は店先でゴロゴロ横になって昼寝をする者も多く、注意してみると露店で働く親の側では子どもがスヤスヤ寝ている。こういった雑踏で平気で寝られる逞しさを感じ、少しもここは危ない場所ではないと感じる時でもある。
衣料品などは昼休みを取らずに商うが、中を覗くと皆中国製品で、丹念に店を廻ると同じ品物でも20%以上の価格の差があるから、買い物好きには面白い場所になるだろう。また問屋が多いと書いたが、ここで仕入れてそれぞれの店で売る人々も多く、ケチャップや油が量り売りで買えるから面白い。
他に興味の引きそうな店といえば漁業用製品を売る店が何軒かある。店頭には様々な小型エンジンが飾られていて、そのメーカーや仕様を見るだけでも楽しい。
以前見た時はいかにも手製のような濃緑色に塗られたエンジンも置いてあって、これで海の上で安全に使えるか心配したものだったが、今回は中国製エンジンばかりで、製品は小奇麗に作られていて、日本名のようなブランド名が付けられていて紛らわしい。
数万ペソからあって3馬力から10馬力程度。これをこちらで『バンカ』と呼ぶアウト・リガーの木造船の動力として使うが、使っている材質から海上での耐食性は弱い。
このエンジンは零細な漁民にとっては高価な代物で、漁が終わると盗まれないように取り外すという。確かにセブの北端にある島へ行った時、浜においてある船からエンジンが盗まれないように夜は見張りを置いていたから、そういった事件は多いのだろう。
- 7月30日(土) 曇り、微風 閑話休題 《 久し振りに行ったカルボン・マーケット 》
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2011.07.30 Saturdayセブの生鮮野菜や果物を扱う市場に『カルボン・マーケット』がある。
この辺り一帯がダウン・タウンになり、カルボンの向こうには海が広がる。
野菜類を商うといっても小さな小回りの店構えで、路上ではシートを敷いて品物を並べ売っていた。
売っていたと書くのは以前はそうだったが、今回久し振りに行ったらこういった露店の店が一掃されていた。カルボンの魅力はゴチャゴチャさであまりの変わりように驚かされたが、今まで道路を占拠していた露店を道の両側に移動させてスッキリさせている。しかし、どことなく活気を感じさせない光景になってしまった感じは否めない。
露店の店は追い出されたが、昔からある建物で商いする店は変わりなく、いかにもフィリピンらしさを感じさせるたたずまいを保つ。
この辺りの建物は戦前からあったのが多く、戦前は日本人経営の店が連なり、当時を撮った写真にも日本語名の看板が写っていて、その盛業ぶりがしのばれる。
戦火を潜って残った建物も大きなビルに建て替えられているのもあり、少しずつこの一帯も変わってきているのが分かる。
セブにはマニラのようなチャイナ・タウンはないが、この辺りで商売をしているのはほとんどが中国系で、看板にも漢字で書かれているのを見かける。とある衣料品店へ入ったら、店内に中国語の歌を流していたから何となくおかしみを感じた。店構えはどこもきれいとはいい難いが、値段は安くセブ中から人が集まる。
カルボンの生鮮野菜などはスーパーなどの半値以下、しかも鮮度は抜群だからここで買い物をしないと損だが、人ごみに紛れてスリや引ったくりが多いともいわれて、要注意の場所ともなっている。
これは外国人向けの注意かと思われるが、セブ地元の人間でもこの地に来る時はそれなりに注意を払うというからブラブラ歩くような場所ではないようだ。
ただ、こういった外国人向けの注意と称する物は実情を知らずにいっていることも多く、そんなに地元を馬鹿にするなよと感じることも多い。
逆に地元の人間が出入りする所は安心できる場所ともいえるから、つまらぬ噂情報に縛られることもない。もっともこういった場所は外国人などほとんど来ない場所でもあるが。さて露店の野菜売りは一掃されたと書いたが、カルボンの本領は夜から明け方にある。この時間帯は行政の取り締まりもなくなって、近郊の野菜生産地から運ばれた野菜が売られ、本当に良いものを買おうと思ったら夜に来る必要がある。
- 7月28日(木) 晴れ、軽風 閑話休題 《 世界の学び舎いろいろ 》
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2011.07.28 Thursdayフィリピンで発行する今日の新聞に、日本人篤志家が小学校の校舎を寄贈しその式典の模様が載っていた。
寄贈した当人は勿論、フィリピン側は教育長官、日本側は駐フィリピン日本大使が出席し、関係父兄や児童の参加数が2,800人というからかなり大きな催し事だったようだ。
国家の根幹は『教育』とよくいわれるが、その土台となる設備、校舎などはいわゆる途上国においては貧しい状態を目にする。私は教育とは関係ないが、住んだ国や行った国では学校を訪れ、写真を撮ることが多かった。
掲載した写真は中米・ホンジュラスにある『Universidad Politecnica de Honduras』の校舎で人口7万人程の山の中の町で見かけた。これでも大学校舎で向かい側にも校舎があり、コンピューター関係のコースを持っていた。
公立の小学校も近くにあったが、狭い教室にぎっしり子どもが詰め込まれ、日本の30人台の教室を考えると雲泥の差の環境と感じた。もっとも、子どもの持つ熱気は国が変わっても同じで安心した。
冒頭の学校寄贈の話に戻るが、途上国に校舎を作る運動はNPOも結構取り組んでいて、それを目的としたNPOもいくつか日本にはある。
私の知っているNPOでラオス国内で職業訓練を中心に活動する組織があって、このNPOもラオス国内各地に校舎を作っていて、そのいくつかを見学したことがあった。
特に印象的だったのは定年退職した方が退職金の一部を拠出して作った例で、この時は寄贈された方と一緒に完成間近に訪れた。使っている校舎を見ると元倉庫でトタン造り、床はそのまま地面で雨季にはドロドロになる環境、アフリカでも校舎を見ているがそれよりもバラックで息を呑んだ記憶がある。
完成間近の校舎はブロック造りでトイレも設置されて、土地はいくらでもある場所に建てられていて村人の期待感が伝わり、こういう援助はいくらでもして良いと思った。
日本は団塊の世代が大挙して退職する今、こういう退職金の使い方(それも一部で校舎が建つ)は理想的、退職金を『海外の極楽生活』などのように自分のことしか考えない、使わない一群を考えると雲泥の差と感じた一件でもあった。
そういえばこの後だったか、カンボジアのアンコール・ワットで有名なシェムリアップへ行った時、かの地では船の上に造られた校舎を見た。
これは雨季になると一帯の水位が上がり、それを見越して船の上に校舎を乗せているわけだが、見た時は乾季で、子ども達は道路から校舎に行き来をしていた。
校舎といえば私の出た小学校は1970年代に廃校となってしまった。田舎の学校ではなく東京の下町まん真ん中の学校で、こういった都会でも子どもが少なくなって統合、廃止されたためだった。
今でも日本に行くと、更地のままになっている校庭跡を見に行き、桜の樹はここにあった、校舎はここだったと懐かしむ。