RSS | ATOM | SEARCH
セブ今昔物語 【26】 セブ市の山の手の中心 『フェンテ・サークル』

 セブ今昔物語 【25】でマンゴー通りのことを書いたので、そのマンゴー通りの起点にある『フェンテ・サークル』に触れたいが、現在、この場所は『フェンテ・オスメニャ』と呼ばれていて、この名は後年に変えられたもので、『フェンテ・サークル』とここでは表記する。

 

【写真−1 4本の道が交差するがランナバウトは信号無しでもスムーズ】

 

 フェンテというのはスペイン語の『FUENTE』即ち『泉』を意味するが、英語で『FOUNTAIN』は『噴水』になり、写真−1の中央左寄りに見える白い塔がフェンテ中心に建つ噴水塔で、今は水は出ていない。

 

 この噴水塔は1912年にセブ市内の上下水道を整備した際の記念に建てられた物で、その当時は水が出ていたのかも知れないが、小生がセブに始めて来た1980年代にフェンテの前にあるホテルに泊まったが、噴水塔から水が出ていた記憶はない。

 

 その後セブに住むようになって、フェンテ方面に出かけたついでに噴水塔の周りを廻るローラースケートを何度かやったが、このローラースケート場は戦前からあって当時の上流階級の子女がパンタロンを履いて滑っていた記録が残っているから、その歴史は古い。

 

 多分1990年代だと思うが、木陰の下に貸し靴屋のあったこのローラースケート場も消滅し、代わりにセブで初めての大規模ショッピング・モールのSMセブが建物内にアイス・スケート場が造られ、こちらも何度か滑りに行ったが、採算が取れなかったのかいつの間にか閉鎖され、今はフード・コートになっている。

 

 やはり暑いフィリピンではアイス・スケートをやる人は少ないのかと思ったが、中にはビックリするほど上手に滑るフィリピン人も居て不思議に思ったが、あれは海外に住んでいるフィリピン人子弟が、フィリピンに帰省した際に滑っていたようだ。

 

 セブからはアイス・スケートの機会はもうなくなったと思ったが、SMが埋め立て地に新たに造ったモール内にアイス・スケート場を造り、一度どうなっているのか見学に行ったが、やはり滑る人は少なく何れ閉鎖されるのではと思った。

 

 さて、フェンテ・サークルのある場所は現在『オスメニャ大通り』と命名されているダウン・タウンから山の手に伸び、セブ州庁舎まで行く全長3.2キロの道の途中にあって、この大通りはセブ市の重要な幹線道路となっている。

 

 この道路、開通した時は19世紀のフィリピンと縁の深いアメリカの政治家の名前を取って1916年に『ジョーンズ』と命名されたが、1960年になってセブが生んだ大統領として知られるオスメニャの妻の名前に変更され、オスメニャ本人は1961年に亡くなり、その後1978年になって『オスメニャ大通り』に改名された。

 

 オスメニャというのはセブを地盤とする政治一族で、戦時中に大統領を出し、そのこどもや孫は上下院議員、セブ州知事、セブ市長などを連綿と続けているから道路の名前変更などお手盛りで簡単、セブの人間なら泣く子も黙る名前であったが、最近はその威光も衰えている。

 

 かつては定員24人の上院議員中2人を一族から出し、セブ市長職などダヴァオ市を牛耳るドゥテルテ同様オスメニャの独占ポストであったが、落選してからは反オスメニャ勢力が市政を握るものの、2022年セブ市長選では落選した元市長の妻が名乗りを挙げていて面白くなった。

 

 なお余談だが、11月19日に病気で入院していた現職のセブ市長が亡くなり、2022年市長選に出馬した副市長(前市長)が職務を引き継いでいて、この人物かつては市長であったオスメニャの下で副市長をやっていたが、オスメニャが市長に復帰しようと出馬した時、対抗馬として出馬し勝ってしまい下剋上と騒がれた。

 

【写真−2 広々とした様子だが今は彼方の禿山も含めて建物が密集している】

 

 そういう生臭い話は置いておいて、写真−2は戦前に建てられたフェンテの噴水塔の様子で、撮影年度は不詳だが山の裾左側に白い大きな建物が見えるが、これは今も健在の『セブ州庁舎』で、庁舎は1938年に竣工していて、これが写っていることは1940年前後の写真ではないかと思われる。

 

 この写真−2に写る噴水塔の形状と写真−1の今の噴水塔の形状を較べてみるとかなり違っていて、高さも昔の方が高い感じを受け、恐らく今の噴水塔は年代は分からないが造り直されたようだ。

 

 今のフェンテは周りに樹が生い茂り公園らしい雰囲気を持つが、オリジナルの頃は柵は勿論樹なども植えられていなくて、広い円状の敷地であり、このフェンテから州庁舎へ向かう道沿いも余り建物が建っていないことが分かる。

 

 同時代の空から写した古い写真を見ると、フェンテから州庁舎まで真っ直ぐな道が造られ、それ以外は何もない野原のような土地が広がっていて、いかにも将来の市街地の膨張を予測して新しい土地を切り開いた感じを受ける。

 

 今のオスメニャ大通りは片側3車線で、中央に木を植えた分離帯を設け舗道からは植えられた大きな樹の枝が被さるように影を落とし、沿道の建物も4階程度の高さに揃っていてなかなか良い景観を作っている。

 

 開発著しいセブの中心地だが、どういう訳かフェンテから州庁舎間の一等地である沿道には高い建物が建っていないが、反対側になるフェンテからダウン・タウンに向かう道路沿いにはセブで最初の40階建ての高層ビルが建照られていて、その違いはどこにあるか分からないが、フェンテ−州庁舎間には何らかの建築制限があるのではないかと思われる。

 

 その制限も大通りに面した並びであって、その後ろ側に当たる区画には20階以上のビルがいくつも建っているから、総合的な美観という見地からはこれらの中層のビルが景観を害しているのは明らかである。

 

 写真−2のフェンテの周り右側に大きな看板が並んでいるのが分かり、何かの商品の宣伝と思うが判読出来ず、それにしてもこういう昔の時代から大看板で宣伝をしているのが分かり、今のフィリピン中に溢れているこの手の看板による宣伝は歴史のあることが分かる。

 

 看板の建っている場所、即ちフェンテの周りは今は5階前後のビルで隙間なく囲まれているが、そのビル群も表のデザインの変化はあるものの1990年代の頃とあまり変わっていなくて、この場所を車で通り過ぎる時に懐かしささえ感じる。

 

 セブも交通渋滞が酷く、これは公共交通機関が全くないために自家用車に頼るしかないことから来るが、それでも公共交通機関としてマニラ首都圏のように軽量鉄道敷設が考えられたが、一般道にバスを走らせるシステムが採用されて推進中である。

 

 このシステムはBTSと呼ばれているが、元々渋滞の酷い道路にバス用の専用道路を確保しようというから、最初から無理があって運行開始される前からその効果が危ぶまれている。

 

 BTSに決まったのは当時のセブ市長が強引に進めた結果だが、その決定プロセスにはBTSを推進する企業側から工作資金が市長に渡ったためと騒がれたが、フィリピンでは当たり前過ぎてやがて誰も言わなくなった。

 

 専用軌道の軽量鉄道を採用しておけば将来に禍根を残さないと思うが、BTSは設備、運行維持の安さから採用されるが、それは充分な運行道路が確保されていることが前提条件で、セブのただでさえ狭くて渋滞している道路に無理に割り込ませても破綻するのは必定で、安物買いの銭失いになりそうだ。

 

 さて、セブを代表するオスメニャ大通りと書いているが、実はタクシーやジプニーなどでは昔の名前の『ジョーンズ』の方が通じ易く、この通りを走るジプニーの横にもジョーンズと表記している。

 

 フィリピンはアメリカの猿真似で、通りや建造物に人名を付けるが、通りなどこの何十年もいくらも増えていなくて、それでいて政治屋は自分の名前を通りに残そうと必死で、そのため中には交差点毎に名前の変わる通りが出現して、部外者には馬鹿じゃないかと思わせる。

 

 それにオスメニャ大通りを今もって昔の名前のジョーンズと呼んでいる人が多いのは、オスメニャの名前など言うのは真っ平御免と政治的立場の人もあるためで、命名した側は万年選挙運動をしているようだ。

 

 こういう時代によって評価の変わる政治屋や有力者の名前を公共物に命名するのは止めた方が良いと思うが、政治屋やその一族は名誉欲や誇示することが何十倍も強いから無理な話か。

 


 

author:cebushima, category:セブ今昔物語, 20:03
-, -, pookmark
セブ今昔物語 【25】 山の手のかつては賑わったマンゴー通りの盛衰

 2018年7月31日に『セブ今昔物語 【24】 セブのショッピング・モール変遷史−その2』を書いてから、3年4ヶ月近くこの項は遠ざかっていたが、2019年3月から始まったフィリピンの新型コロナ対策も、ワクチン接種のせいもあってだいぶ下火になり、外出などの制限も撤廃に進んでいる。

 

【写真−1 今の猥雑な通りの様子からは雲泥の差がある長閑な写真】

 

 とはいっても、フィリピンのコロナ感染者は毎日2000人台を記録し、日本と比べたら10倍以上、特に毎日の死者数が200人前後と相変わらず多く、それでいて政府はボロボロと規制解除に踏み切っていて、このツケは何れ分かるだろう。

 

 それでも2年近くも外出を控えていた生活が続いた反動もあって、先日ダウン・タウンの方へ出かけ古い建物などを見ている内に、いくつか『セブ今昔物語』向きのテーマを思い付いたので、書き綴ることにする。

 

 マンゴー通り(Mango Avenue)の現在名は『 General Maxílom Avenue』と人名になっているが、この人物はスペイン植民地時代末期にフィリピン独立をセブで戦い、Generalと付いてはいるが、軍人ではなくセブ島北の町生まれで教師をしていた。

 

 ただし、スペイン由来のMaxílom (マキシロム)と呼ぶのはフィリピン人も言いにくいのか、昔ながらのMangoと呼んでいるのが大多数で、外国人観光客などもどう発音したら良いか戸惑うが、マンゴーと言った方が分かり易く、タクシーに乗った時など尚更である。

 

 1950年代のマンゴー通りを撮ったのが写真−1で、マンゴーの樹が両側に生い茂りこれがマンゴー通りという命名の由来となっていて、この写真では道の中央に自動車が走っているが、戦前は一頭立て馬車のカレッサ(カルマタとも呼んだ)が主力で、乾季の時期は馬糞が風に舞い、それが戦前の風物詩であったという。

 

 マンゴー通りは、海に近いダウン・タウンから山の手方向に向かうオスメニャ通りを北上し、州庁舎に至る道の途中にある『フェンテ』と呼ばれるランナバウトから直角に伸びて最終的には南下して海沿いを走る幹線通りに交わる。

 

 この幹線道路、『ハイウェイ』と呼んでいるが名前だけで少しもハイウェイでない渋滞道路で知られるが、それでもセブの南北を走る重要な道になっているが、1990年代には途中で途切れている変な道でもあった。

 

 今は全通しているが、当時は戦前から残るサン・カルロス大学の校舎を右に見ながら北へ走ると広い道がいきなり止まっていて、戦前からの古い狭い道を迂回して彼方にあった幹線道路に行き着くのだが、どうしてこういう不便であったのかの理由は分からない。

 

 その開通していなかった区間は中央に並木の植えられた片側三車線の、今では堂々たる通りになっていて、地図を見てもこの区間は真っ直ぐに造られていることが分かり、この新しい道と交わる交差点がフェンテからのマンゴー通りの終点になる。

 

 上述した通りを反時計回りにパレードを行うのが、毎年1月に開催されるセブで最大のお祭り『シヌログ』で、マンゴー通りはその中でも祭り見物の人々を集める最大級の通りとなっている。

 

 このマンゴー通り、セブにSMやアヤラなどの大規模ショッピング・モールが造られるまでは、セブの山の手で一番繁盛していた通りで、小生なども家人などと良く出かけたが、モールが出来てからは人の流れが変わって、活気を失い車が通過する通りとなってしまった。

 

【写真−2 フェンテの周りは珍しく雰囲気は何十年も変わっていない】

 

 写真−2はマンゴー通りの始まるフェンテ側から見た現在の様子で、正面に見える細いビルはセブでは一番高い階数を持つコンドミニアムで、確か50階以上あったと思うが、今にも倒れそうな鉛筆のように細長い建物で大丈夫なのかと傍を通る度に不安を感じるが、その隣もコンドミニアムである。

 

 写真の右端に写るのはロビンソン・デパートで、ここはセブでも草分けのモール形式の店で、店構えや売っている物は大したことはなかったが、建物内に駐車場を備えていて、螺旋状の通路を上下別々で利用したが、そういった形式の商業施設というのはセブでは初めてであった。

 

 このロビンソンの建物上部にやや高級なホテルが1991年に開業し、ホテルの少ない時代には日本人も良く泊っていたが、新しいホテルが次々とセブに生まれてあまり名前を聞かなくなったが、名前は変わったが今も営業中である。

 

 ロビンソンは、SMやアヤラのモールと張り合う中国系の人物が経営していて、数年前にセブ港近くにホテルやコンドミニアムを併設した大規模なショッピング・モールを開業し、ロビンソンは国内低価格航空会社の雄、セブパシフィック航空を傘下に持つから、空の足と宿泊、ショッピングをまとめる経営戦略でいるようだ。

 

 写真−2を高層コンドミニアムの方に向かうと、すぐ左側にはかつて映画館のあったビルがあり、今のようにモール内にあるシネマ・コンプレックスで映画を観る時代とは違って、映画館が独立して開業していて、マンゴー通りにはもう一つこの先の右側に映画館があった。

 

 セブで映画を観るとなるとマンゴー通りかダウン・タウンまで行くしかない時代で、どちらの映画館も良く通ったが、当時のフィリピンの映画館は全盛期で、人気映画で座席に座れなくて階段に座って観たこともあり、若者の失業者も多いために朝から映画館は満員であった。

 

 今でこそ、日本食レストランなどセブのあらゆる所で店を開いているが、1980年代から1990年代初頭にかけてはマンゴー通りに二軒あり、その一軒は映画館のあるビル内にあり、名前は『銀座』と記憶するが経営者は中国系だがセブでは草分けといって良い日本食レストランであった。

 

 戦前はともかく、1990年代前後にセブで日本人が経営する日本食レストランはかつてのセブ・プラザ・ホテル近くにあった『富士山』という店が最初と思うが、近くを通る時にこの辺にあったなと思い出すが、既に店は跡形もない。

 

 マンゴー通りを更に進むと右側にジョリビーの店、左側にナショナル・ブック・ストアの入る建物が連なり、ジョリビーのセブ第1号店はダウン・タウンであったが、マンゴー通りに出来た店はセブで2番目と記憶する。

 

 ナショナル・ブック・ストアは何十年も変わらない佇まいで今も営業をしているが、その裏手はかつての高級デパート『ルスタン』の入っていた建物で、ルスタンにあったエスカレーターがセブで最初に導入されたエスカレーターというから、セブもそれほど昔からエスカレーターがあった訳ではないようだ。

 

 ルスタンは高級な店といわれているが、それ程高級な品物があった訳ではなく、唯一女性用輸入化粧品が充実していて、これは独裁者マルコスの妻イメルダがかつて大株主であった関係で入れていたのだが、フィリピンも生活水準が上がってルスタンは特別に高級な店という雰囲気は失いつつある。

 

 高層コンドミニアム近くに、『ヴィエナ』というレストランがあって、セブで豆から飲めるコーヒーを出すのは数少ない店の一つで、当時は一流のレストランやホテルでコーヒーを頼むとネスカフェのインスタント瓶と白湯を持って来て、自分で入れて飲めというやり方が普通で、海外からの観光客など面食らった時代である。

 

 先年、10数年ぶりにこの店を訪れたが、店内は昔のままで懐かしく思うものの、客の姿は見えなく、こういったオールド・スタイルはもうセブでは通用しなくなったのかと感じたが、先日この前を通ったら店の看板が変わっていた。

 

 車だけが通る渋滞のマンゴー通りと書いているが、近年は駐車場を備えた小さな店の集まった集合施設が増え特色を出そうとしているものの、かつての高級な通りの名前は廃れて、今のマンゴー通りはバーなどの店がいつの間にか増えた。

 

 これらの店は違法営業とか売春容疑で時々警察によって摘発されているが、そういったいかがわしい店が増えたために、この通りは他所から来る観光客にとっては夜の通りとして有名になってしまった。

 

 フィリピンはこの手の店の警察や行政による手入れは時々ニュースになるが、この手の店は裏では警察や軍と結びついているのが多く、大々的に摘発したというニュースが出ても世間の反応は『ああまたか』といった具合で、ほとぼりが冷めれば再びこの手は復活しなくなることはない。

 

 これなど、日本の警察がヤクザ組織を摘発する時に裏で話が付いているのと似たような感じで、警察も必要悪と認めている所もあるし、フィリピンでは警察官がこの手の店の用心棒をしているなどの話はいくらでもあり、マンゴー通りから一掃するのは難しいのではないか。

 


 

author:cebushima, category:セブ今昔物語, 19:45
-, -, pookmark
セブ今昔物語 【24】 セブのショッピング・モール変遷史−その2

 前回のセブ今昔物語【24】セブのショッピング・モール変遷史−その2ではセブの草分けモールや大資本のモールに付いて書いたが、今回はその他のセブにあるモールを3ヶ所選んで書いてみる。

【写真−1 正面の道はセブ島南部方面へ行く幹線道路】

 写真−1はセブのダウンタウン方面にある『エリザベス・モール』で、このモールは中国系経営者の妻の名前がエリザベスだから命名したと言っている。モールの前はセブ島南部に向かう幹線道路が通っていて、交通量は激しく、モールの右手側には南部方面へ向かうバス・ターミナルがある。

 このモールには映画館もあってモールの条件に当てはまるが、このモールには1回しか中に入っていなくて、そのきっかけは戦前にセブに走っていた鉄道の跡を調べるためで、戦前の鉄道駅と構内はモール敷地から今のバス・ターミナル辺りにあった。

 この駅を中心に南部方面にはアルガオまで67キロ、北部方面はダナオまで29キロ、計96キロ線路は伸びていて、セブ島の長さが南北200キロ余なのでかなり長かったのが分かり、線路はこのモールの地下駐車場の出口辺りを左右に通っていたと思われるが、そういうことに興味を持つ人は少ない。

 この鉄道は1945年4月、アメリカ軍がセブ島に上陸反攻時に、日本軍が輸送を妨害するために破壊し、戦後は復旧されることなく鉄道の遺構はまだかすかに残るが、忘れ去られている。

 日本軍の破壊工作だが、既に米軍は自動車輸送が主体になっていて、鉄路を破壊しても輸送、兵站にはほとんど影響なく、日本軍の後先を考えない作戦思想はこういう所にも表れている。

 最近、ドゥテルテ政権になって同じルートでセブに鉄道を敷く構想は出ているが、大手ゼネコンを儲けさせるだけで、鉄道というのは敷設より保守が肝心で、保守管理の悪いフィリピンには向いていず、開通しても赤字は必至。

【写真−2 このモール建物内では犬を歩かせることが出来る】

 写真−2は『パーク・モール』の庭の部分でどういう訳か日本庭園風。このモール、古い埋立地にあり、マクタン島とセブ島に架かる2本の橋に繋がる道路沿いにあり、近くには2013年の台風で破損したままの国際会議場やコンドミニアムやホテルが建ち始め、大きな病院も近くにいくつかある。

 そのため、人の流れはかなり活発なモールだが、このモールの前身は屋根と壁だけが出来た大きな倉庫のような建物が長い間、放置されていた建物を改装したもので、大火で焼け出された人々がここに避難して生活していた時期もあったが、大々的に改装してモールとしてオープンした。

 資本の関係は良く分からないが、独立系の資本らしく、他のSMとかアヤラといった、傘下企業の金太郎飴の様なテナントは少ないが、SM資本のかなり大きなスーパーが入っている。

 このスーパー、全国展開をしているが、店によって扱う品物の鮮度がかなり違っていて、これは商品の売れ行きの速さと関係があり、ここは割合鮮度の良い品物を扱っている。

 かつて、この辺りは雑草の生える通過するだけの殺風景な空き地の広がる地域であったが、このモールが出来てから、道を挟んだ裏の敷地に商業施設も造られ、ずいぶんと開発が進んだ。ただし、このモールには映画館は無いからモールと名乗るには無理な気もする。

【写真−3 立地条件はあまり良いとは思えない東横イン】

 パーク・モールからいくらも離れていない場所に写真−3の『Jセンター・モール』がある。高層のビルは日本の『東横イン』で、この建物はモールがオープンし、かなり経ってから造られた。

 このモールの敷地は元マッチ製造工場跡で、それで分かるようにこの地域は工場が多く、ビールのサンミゲル工場もすぐ傍にある。そういうガサツな地域であり、モールの立地としてどうかなと思ったが、案の定、客足もテナントも冴えない感じが続く。

 このモールの前は渋滞で知られる道路が通っていて、また日本食レストランの多い道路として知られていたが、最近は韓国勢のレストランが目立つようになっているが、ハングルだけの看板を平気で掲げていて、無意識にしてもフィリピンを植民地として見ているようだ。

 

 このモールの資本はやはり中国系でマンゴーをドライ菓子にする会社で財を成した。素人目にはマンゴーの加工など儲かるのかと思うが、この一族、ホテル業にも進出し、マクタン島で最多の部屋を持つホテルを経営し、隣のボホール島ではフィリピン最多の部屋数、アジアでも有数のリゾートを建設中であるから馬鹿にしてはいけない。

 また、モールの裏側には40階以上のコンドミニアムを造る計画で、販売活動をしているが、過熱する一方のフィリピンの不動産バブルが弾けなければ良いと思うが、中国系は打たれても事業を進めて行くから、良きにせよ悪しきにせよ強い人々である。

 このモール、テナントは冴えないと書いたが、どういう繋がりがあるのか分からないが政府機関出張所がモール内にいくつも入っている。入国管理局、国家警察捜査局、陸運局、社会保険を扱う機関や電力会社もあり、利用する人には便利であるが、家賃などしっかり相場どおり払っているのかどうか。

 人が出入りすればテナントにお金が流れると思ってだろうが、多くは用を済ませてすぐに帰る人が多いようでモール側が思うほど効果があるか疑問。ここにも先述のスーパーが入っているが、野菜など生鮮食品など鮮度が悪く、時には古い玉子も平気で売っていて、それが故に客が離れ、客が離れるから品物が古くなるという悪循環に陥っている。

 モール自体が冴えないのと関係もあるだろうが、東横インの営業も上手く行っているのかどうか。日本のネーム・バリューで客を集めていると思うが料金設定が周辺のホテルより安く、やはり安くしないと客が集まらないのかなと思うがどうだろうか。

 さて、このモールには映画館が2館あって、こじんまりした観やすい座席配置で時々観に行くが、最近の上映作品はつまらないCG物の映画ばかり上映しているので足が遠のいている。


 

author:cebushima, category:セブ今昔物語, 18:18
-, trackbacks(0), pookmark