- 4月30日(金) 晴れ 軽風 閑話休題 《 漫画的な新聞社の模擬投票 》
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2010.04.30 Fridayマニラ・ブレティン(Manila Bulletin)という英字新聞がある。創刊100年以上の伝統を持つ新聞でもある。
このウェッブ版で大統領選挙の模擬投票をやっていた。(写真はTIME誌の表紙に載った選挙を優勢に進めるアキノ)
4月29日現在を見ると、総投票数13万7千票弱になるが、1位は与党が担ぎながら各種世論調査で10%以下の低迷ぶりを見せるテオドロで、得票率が何と43%もある。
2位はどの世論調査でもトップを取っていたアキノで、25%だった。3位にはアキノを追うヴィリヤールと思いきや、エストラーダが14%で続く。
驚く事にヴィリヤールはゴードン、ヴィリアヌエバと言った泡沫候補並みの連中の後塵を拝し、6位、5%の支持しか受けていない。幾らなんでもこの模擬投票でのテオドロの独走1位とヴィリヤールの6位は変と感じる。
この新聞社の持ち主は政商『コハンコ』で、テオドロの叔父になり、アキノとも親戚の人物で、あまりにも各種世論調査と数字がかけ離れ過ぎ、数字を操作したとしか思えない。
ウェッブでの投票は誰でも何回でもその人物をクリックするだけで1票に加えられるようだから、組織的に人を雇ってやらせれば低迷する人物でもトップに持って行く事は簡単である。
もっとも、パソコンで投票するような一般の人はフィリピンでも限られる層で、数字の偏りはあるだろうが、これは極端過ぎて信頼性を損ねている。
これは政治の世界に限らず、ミス・コンテストや芸能オーディションでも電話投票を採用するのが多い。
この間、セブでもミス何とかで電話投票の結果と違う結果が出たと言って、落ちた親が訴訟沙汰を起こした事があったから、傍観者としてはヘェーと思うだけだが、当事者は真剣なのだろう。
- 4月29日(木) 曇り、軽風 夜半大雨 閑話休題 《 使い捨てられる高層ビル 》
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2010.04.29 Thursday写真はたまたまこの3月に東京・赤坂へ行った時、豊川稲荷近くの青山通りに架かる歩道橋から撮った。
この辺りはビルを取り壊して建て替えている現場が多く、少しは景気が良くなったのかと思わせた。
真ん中右奥の高層ビルが、今度取り壊される事になった『グランドプリンスホテル赤坂』の新館である。
1983年に丹下健三設計で建てられたが40階のビル寿命が30年もなく、高層ビルも使い捨てられるのかと思った。このホテルは『赤プリ』と言った方が通り良く、赤坂見附から眺める新館はそばに高層ビルが無いためになかなかの眺めだった。
その昔、高校の同級生がこのホテルで結婚式と披露宴をした事があった。このホテルの前身は旧皇族の住居で、今も旧居は保存されていて、そこで披露宴は行われた。友人の祝いよりも風格ある建物と調度の方に気が取られた想い出がある。
さて、ここを所持する西武グル―プは経営難のためにこのホテルを閉鎖、旧館以外は取り壊しするようだが、土地は新規に事業を展開するとの話である。
プリンス系ホテルは戦後窮状に陥った皇族や、華族の土地屋敷を集中的に買って現在の地歩を築いたが、不動産屋としては先見の明はあったが、ホテル業としては2流の域を出なかった。
最近の海外著名ホテルの東京進出によって、経営は一層苦しくなった。私も一度プリンス系のホテルに泊まった事があったが、海外からだと室料の値崩れは大きく、安っぽいホテルの印象は免れなかった。
設計者の丹下は1991年に新都庁を新宿に作ったが、デザインがここと良く似ているのが分かる。新都庁の総工費は1,569億円と言う巨費だったが、この位は簡単に金が動く『バブル期』を象徴する建物になった。
日本の高層ビルの嚆矢となる『霞が関ビル』は1968年竣工、既に40数年経つが今も健在の事を思うと、業種が違うとは言え、今度のホテル取り壊しはあまりにもはかないし、日本の使い捨て消費文化もいよいよここまでなったかと思う。
- 4月28日(水) 曇り、軽風 閑話休題 《 4・28 沖縄ディー 》
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2010.04.28 Wednesday4・28は(よんてんにいはち)と呼ぶ。今はあまり注目されないが、1970年代は盛んに言われたフレーズである。
この日は1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した日になる。
これは日本が1945年8月15日に敗北した先の大戦から、ようやく世界に向かって歩み始めた日でもあるが、沖縄にとっては処分であり、以後、1972年までアメリカが沖縄を統治する。
先の大戦で沖縄では19万人弱が戦死し、内、沖縄住民は10万人近かった。『本土決戦』などと狂気の日本が考えた作戦の前哨戦が沖縄戦であり、かつ唯一の本土決戦であった。
戦後、こういった沖縄の犠牲は顧みられず、米軍基地の要として日本から見捨てられた。普天間基地問題を見れば分かるように、この沖縄の基地問題は一向に解決していない。
私は高校生の頃から、南の島に関心が高く、奄美大島、徳之島と足を延ばした。次は与論島、そして沖縄と考えたが、当時、沖縄に行くにはパスポートが必要で、アメリカの許可が無いと旅行出来なかった。『同じ日本なのにどうして?』と思い、沖縄に一層興味を持った。
ようやく沖縄に行ったのは数年前で、那覇の街に走るモノレールに乗って、だいぶイメージと違うなと思ったが、1970年、『コザ暴動』のあった沖縄市へ行き、嘉手納基地のゲートなどを見て『基地の中の沖縄』の印象は深まった。
現在、沖縄は観光を主要とするが日本語のコール・センターも集中している。国内で一番賃金の安い県であり、那覇の繁華街で見たアルバイトの時給は東京の半分だった。
コール・センターは賃金の安い所に作られ、これはフィリピンでも首都圏ではなく、セブに作られるのと同じで、今はもっと安いネグロス、ミンダナオにシフト化している。
さて、復帰当時は『芋、裸足』論があって、米軍基地を撤去したら戦前の貧乏な『芋、裸足』に戻ると、自民党を中心に宣伝され、一定効果はあったが、今こんな論法で基地を残そうとする人間は沖縄には居なくなった。
冷戦の終結が基地の戦略的価値低下をもたらし、沖縄の基地の在り方を変えた。沖縄や基地問題に関心が無くてもせめてこの日だけでも沖縄の痛みを思っても良いのでは。