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懐櫻録 2020 その−(15) 最終回 東京・新宿御苑の桜と新宿−2

【選挙運動に利用され汚されてしまったけれど】

 

 今年も秋の風を聞く季節になってしまって今更桜の話でもないが、本稿で懐櫻録2020の終わりとする。

 

【写真−1 御苑には65種類1100本の桜がある】

 

 上野公園にするか新宿御苑するかで迷ったが、新宿御苑の方はその−1で書き足りなかったので新宿御苑にするが、写真−1は苑内にある芝生広場で、思い思いに寝転んだり座って春の陽射しの下でそれぞれ寛いでいる。

 

 こういった光景も2020年は新型コロナの流行で、今年は見られなかっただろうが、都知事が『桜は来年も咲くから今年の桜見物は我慢して』の無神経な発言を聞きながら、この間来年の桜を観ずに亡くなった人も多い。

 

【写真−2 紅白の花は確かにおめでたい感じはする】

 

 写真−2は桜と思ったら違い、花の咲き方は桃のような感じもするが、一つの木に濃い赤とピンク色の花を咲かせている。こういう咲き方を園芸の世界では『源平咲』と呼んでいて、源氏の赤旗、平氏の白旗に因んでいる。

 

 こういった現象は、梅、桜、椿などにもあり、セブでも白と赤、ピンクが入り混じったブーゲンビリアで見られる。突然変異で基の濃い色の花が色素を失って起こるらしいが、めでたい気持ちにはなる。

 

【安倍は辞めても桜は咲き続ける】

 

【写真−3 古い施設には味のある古い家具が置いてあることが多い】

 

 新宿御苑は1877(明治12)年に開園したが皇室の管理下に置かれ一般の人は入れなかった。それが戦後の1949(昭和24)年に一般へ開放され現在は環境省の管轄となり、そういう古い歴史を持つために重要文化財に指定されている建物が残る。

 

 新宿御苑といえば辞めた日本の首相が花見の会を開いていた場所で、ああいう露骨な選挙運動を公費でやるとはどう見ても即辞任だが、結局有耶無耶で終わった。ああいう席にノコノコ出かける連中も連中だが、特に芸能人はその無定見さから醜かった。

 

 写真−3は苑内の休み所で見た椅子で、良い材料としっかりした技術で作られていて、今では作れない物で無造作にこのように使われていてはもったいない気がする。

 

【写真−4 新国立競技場も近いがこの施設税金の無駄遣いそのもの】

 

 新宿御苑は新宿駅から歩いて来て入る『新宿門』とその並び奥にある『大木戸門』からほとんどの人は入場するが、もう一ヶ所写真−4の『千駄ヶ谷門』がある。新宿門などはいつも混み合っているので、千駄ヶ谷駅で下車して歩いてすぐのこの門から入れば余計な時間は取られない。

 

【田舎であった新宿の昔と今】

 

 

【写真−5 飲み屋街もコロナで青息吐息】

 

 花見見物の後は新宿の雑踏に向かうが、だいたいコースは決まっていて伊勢丹から紀伊国屋書店を覗いて新宿駅西口側へ足を伸ばす。ここではビックカメラやヨドバシを覗くが昔はヨドバシなど小さな店であったが大きくなったし、京王線、小田急の駅の造りもずいぶん変わった。

 

 写真−5は西口の線路際にある通りで看板で分かるように『想い出横丁』などと名乗っているがかつては『しょんべん横丁』と呼んでいて、文字通り小便臭い一角で、小さな店が狭い通りを挟んで商売をしていた。

 

 ここでは『鯨カツ』を専門にする店で良く食べたが、薄い黒っぽく揚がった鯨カツ、薄い味噌汁、形ばかりのキャベツのお新香が付いて安く腹一杯食べられた。今は鯨料理は高級となってしまい、それでもかつての店はまだあるのかと探したが分からなかった。

 

【写真−6 再開発するには複雑な一帯】

 

 ヨット仲間が写真−6の『ゴールデン街』で店を開いていたことがあり、その時は良く通い、文学や演劇人、酔っぱらった芸能人の姿を見て、店が閉まってから一緒に横浜に係留していたヨットまで行ったこともあった。

 

 当時は癖のある一帯で、普通の人はなかなか行けるような所ではない雰囲気であったが、今は違うらしくチョッと毛色の変わった飲み屋街として有名になっているらしい。

 

 特に海外から来た旅行者に人気で、そういった人々で賑わったが、コロナ禍で火が消えたような状態だという。そういえば近くの歌舞伎町がコロナの蔓延地域としてかなり槍玉に挙げられたが、ここはどうであったのだろうか。

 



 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 19:19
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懐櫻録 2020 その−(14) 日本五大桜の5番目 福島県三春町・旅の最後に最高の姿を見せてくれた瀧桜(たきざくら)−2

【春麗の瀧桜を詠んだ詩と団体写真】

 

 瀧桜ばかりに目を奪われがちだが、背後の土手の上にはソメイヨシノが満開で、そちらに足を伸ばし瀧桜を見下ろすのも一興で、その土手に写真−1の『瀧桜』と題の付いた詩碑があった。

 

【写真−1 瀧桜の背後の土手にあり他にも石碑がいくつか】

 

 この碑は福島県いわき市小川町出身の『草野心平』の詠んだ詩が彫られていて、『梅桃桜 三春の春の 春一等の 瀧桜 萬朶の花は 盛りあがり すだれ瀧となって 垂れさがる 日本一とも言われての ベニシダレの その見事さ 美しさ 背景はあやめの空と 羊雲』とある。

 

 草野心平は1988(昭和63)年に85歳で没したが、蛙を詠んだ詩で知られる詩人で、亡くなる前年に文化勲章を受章していて、画家や作家の受賞者は憶えられない程いるが、詩人は少なく1951(昭和25)年の『土井晩翠』に次ぎ、草野の次は2005(平成15)年の『大岡信』と3人しかいない。

 

 先年、東北の津波被害者支援で東北を廻った時に、いわき市にあるキャンプ場から仮設住宅を行き来したが、その途中に草野心平の生家があり見学していて、16歳まで住んだ生家は綺麗に整備され、今は記念文学館になっている。

【写真−2 コロナ禍で今年はどこの花見の名所もこういう光景は見られない】

 

 名高い景勝地には付きものの団体写真を撮る設備がここにもあり、写真−2は瀧桜を背景にするには絶好の場所に台が組まれ、次々と団体客が導かれて写真を撮っていた。

 

 個人がカメラを持ち、今はスマホで気軽に撮れる時代になってこの手の商売は先細るようだが、団体の場合それなりに需要があるのであろう。そういえば、カメラを持たない観光客向けに写真を撮る商売もあったが、こちらも全滅状態か。

 

 フィリピンで教会の結婚式に行くと、この手の写真屋がバチバチ撮って、式が終わる頃には撮った写真を片隅に並べて売っているが、これなど写真がデジタル化されたから出来る商売で、それなりに商売になっているし、小生も買ったことがある。

 

【福島県桜番付で瀧桜は東の正横綱に】

 

【写真−3 こういうリストを見ると日本は桜の国でもある】

 

 駐車場の一角にテント張り屋台が出ていて、そこで見かけたのが写真−3のポスターで、これは福島県内に咲く桜を相撲の番付に模してランク付けしたもので、やはり『瀧桜』は東の正横綱と県内一の存在を示している。

 

平成27年とあるから毎年作られているのか分からないが、西の横綱は郡山市の樹齢400年の『地蔵桜』で、瀧桜と同じエドヒガンの枝垂れ桜で写真を見ると瀧桜より花の色は紅色が濃い。

 

 三春町には番付に入る桜が多く、三役の大関2、関脇1、小結1に名を連ねていて、他にも前頭でいくつも入っていて、三春町は瀧桜だけではない桜の里であることが分かる。

 

 それにしても、こういう資料を見ると順番に桜を訪ねてみたいと思い、観光客誘致には優れもので、これを巡るにはどのくらいの時間がかかるのかと思いは膨らみ、他県でもこのような試みは行われているのかと興味を持つ。

 

【写真−4 このくらいの枝垂れ桜は町内を歩くとたくさん見られる】

 

 瀧桜は夜間にライトアップされ幽遠の評判だが、その時間まで留まるには鉄道、バス利用者にはきつく、またバスに乗って駅に戻るが途中にも見事な枝垂れ桜の姿を見、このまま駅に直行するのはもったいないので町の中心部で下車する。

 

 汗ばむほどの陽気の中を満開の桜を愛でながら歩くと、由緒ありげな寺があり中に入るが、寺は曹洞宗『州伝寺』で、その境内にも写真−4の様に枝垂れ桜は満開だが、そのそばに積まれた石碑の山に驚かされる。

 

 三春は旧三春藩の城下町で、寺の反対側の山の上には城があり、藩主は何代も変わったが藩主の墓が寺内にある。この近くに桜番付で東の大関を張っていた『福聚寺』の桜もあるが急な坂道を登らなければならないので諦める。

 

【三春町も福島第1原発からの放射能で汚染されていた】

 

【写真−5 その昔は三春城の追手門があった場所】

 

 三春町は『三春駒』で知られる町で、古い洋館も残り町の中心を貫く幹線道路は観光を意識してか、整備されて電柱がなくなりスッキリしているが、古い街並みは失われた感じがする。

 

 幹線道路沿いに『自衛官募集中』の看板を正面に大きく掲げた4階建ての町役場があり、その辺りが町の中心になるが、町役場反対側の高くなった場所に写真−5の古い門があった。

 

 この写真左側に建物が写っているが『三春小学校』で、門は校門で古いのもそのはずで、三春藩の18世紀後半に設立された藩校の表門を移築したもので『明徳門』と称すが、校庭を囲んで桜が満開でこういった環境で学べる子どもは恵まれている。

 

【写真−6 何兆円もの国費を使って除染をしているが土建屋の利権か】

 

 福島第1原子力発電所が爆発し、近隣へ放射能汚染を起こしたのは2011年で、その前年に三春町は瀧桜整備を理由に入場料を徴収するようにしたが、爆発のあった年の春は国中が放射能の恐怖で花見見物どころではなく、町は皮算用の当てが外れた。

 

 そのため、三春町は翌年、東京電力に対して入場料損失の損害賠償訴訟を起こし、その請求額3272万円で、その裁判の結末はどうなっているのか知らないが、福島という保守的な場所柄何らかの形で手打ちになっているのではないか。

 

 放射能汚染から4年以上経っているのに、三春駅へ向かう途中で見かけた『除染事業』中の看板が写真−6。花見気分が一気に吹き飛ぶ看板だが、除染は昨年の11月に福島へ行った時に汚染土を運ぶダンプカーの車列が高速道路上を走っているのを目撃した。それにしても1000年も生きている『瀧桜』、まさか頭上から原子力発電所の放射能汚染物質が降りかかるとは思っていなかったであろう。

 


 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 20:00
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懐櫻録 2020 その−(13) 日本五大桜の5番目 福島県三春町・旅の最後に最高の姿を見せてくれた瀧桜(たきざくら)−1

【新幹線と普通列車で行く三春町】

 

 五大桜最後は福島県三春町にある『瀧桜』で、この年の桜はどの地も早く開花してしまい、四大桜も例外ではなく花の盛りは過ぎていたが、一番北の地域で咲く瀧桜は満開というニュースが流れ、期待を込めて彼の地に向かう。

【写真−1 この4年半後にジャパンレイルパスを使って新幹線全線乗車する】 

 

 東京から普通電車で行くと目的地の三春駅まで行くとかなり時間がかかりそうなので、郡山まで新幹線、郡山で磐越東線に乗り換えて三春駅のコースを取るが往復新幹線で2人分というとかなり運賃はかかるが、この場合はしょうがない。

 

 大宮駅から新幹線に乗るが、駅弁を広げてゆっくりする間もなく1時間少々で郡山駅に到着し、途中那須連山の雪を被った風景を楽しめるかと思ったがそれもなく、新幹線はただ移動するだけの高い運賃を取る乗り物と再認識。

 

 写真−1は郡山駅に降りてホーム反対側に停まっていた新幹線車両で緑系の塗装は東北新幹線を経由して北海道へ、手前の赤系は秋田へ行く新幹線車両で違う仕様の先頭車両同士を連結するところに運行上の工夫というか苦労を感じる。

 

【写真−2 難読駅は無人駅】

 

 郡山駅で磐越東線に乗り換えるが、新幹線ホームから在来線のホームに移ると一気にローカル色に包まれ、同じ駅のホームとは思えない雰囲気ながら、週末とあってホーム上はかなりに賑わい、目指すのは三春町の様だ。

 

 三春町は『三春駒』で知られる鄙びた場所にあると思っていたら、郡山駅からは2つ目の駅で、福島県内でいわき市に次ぐ人口を抱える郡山への通勤範囲に入る。

 

 上手い具合に先頭車両の窓の所に立つことが出来、写真−3は磐越東線郡山駅次の難読駅で知られる舞木駅(もうぎえき)に入る直前で、ホームを挟むように咲く桜が満開で、否が応でも瀧桜への期待が高まる。

 

【春の陽を浴びて人の流れに沿って瀧桜へ】

 

【写真−3 瀧桜はトンネルを潜った向こうの丘に咲く】

 

 三春駅で降りると駅前に瀧桜へ直行する専用バスが待っていて、観光客に混じって乗車するが、公共機関利用で訪れる観光客には専用レーンが設けられ、折からの行楽日和に誘われて車で来た観光客の一向に進まぬ大渋滞を尻目に現地に到着。

 

 写真−3は駐車場で、正面に入口と書かれた鉄骨の右の方に四角い構造物が見えるが、これはトンネルでこのトンネルを通らないと瀧桜へ行けないようになっていて、左の方で入場料を払う必要がある。

 

 これまで五大桜中、四つを観ているが入場料(300円)を取られるのは初めてで、これは樹の保護、周辺整備財源に使われ、開花宣言から葉桜になる期間まで徴収するらしいが、他の五大桜が無料で観られる中では説明に困るものの、お賽銭と同じ感覚で良いのではないか。

 

【写真−4 瀧桜の向こうの土手にソメイヨシノが被ってしまうのが難点か】

 

 瀧桜へ至る細い道の両側には小さな売店が並び、地元産の食べ物を売り、観光客も群がっているが、よくよく見れば別に三春町で買わなければいけない品物ではなく、野次馬心理が散在するようだ。

 

 瀧桜と同じ種類の苗木を売っていて、こちらは買ってみたいと思うが、セブに持って帰るのは検疫の関係もあってまず無理だし、桜は低温の時がないと花芽が付かなく、年中30度の気温のフィリピンでは育てること事態、難しい。

 

 人の流れに乗って進むと、緩やかな斜面に写真−4の満開の瀧桜の姿が目に入る。瀧桜に向かう道には写真の様に見物客が蝟集し、列はなかなか動かず気後れするが、これまで観て来た桜はまばらな観光客の中であり、桜というのはそれなりに花見客があって映えるのは確か。

 

【瀧桜とは誰が名付けたのか】

 

【写真−5 紅枝垂れというように少々紅色が勝る】

 

 瀧桜は樹齢1000年といわれるエドヒガン系の『紅枝垂れ桜』で、高さ12m、幹回り9.5m、枝張りは東西南北に20m前後、江戸時代の文献にはこの地は瀧村とあって現在も大字は滝であり『瀧村の桜』が現在名になった様だ。

 

 五大桜の中で、唯一貴種が植えたという伝承がないのが瀧桜で、生えている地には古い民家があり、昔から地域で大切にされていた様子が分かり、いつからは知らないが花の咲く様子が瀧のように見えるところから、知恵者が『瀧桜』と名付けたのではないか。

 

 写真−5は瀧桜に一番近づいて撮った写真で、1000年を超えている樹齢から幹は山梨県北杜市の『神代桜』と同じ巌の様に生えるが、瀧桜に関してはあまり近くに寄らないで、遠くから観た方が瀧の様に花びらの零れ落ちる様子が分かる。

 

【写真−6 右に見える土手の上の桜も満開】

 

 写真−6は花びらが滝の様に落ちる様が良く分かるアングルで、青空を背景に良く映え名に恥じず、五大桜巡りで最後にこの様な状態で観られたことは良かった。

 

 瀧桜だけが独立して生えているが、周りは元々耕作地で瀧桜を守るために草地にして菜の花を植えて見栄え良くしていて、これが入場料徴収の根拠になる整備事業になるのであろう。

 

 瀧桜の周りに柵を設けて観覧者を遠ざけているが、この写真を見るとかなり樹に近い感じがして、特に枝の先は観覧者の手に届く具合で、これでは根を痛める様な感じがするからもう少し離した方が良いのでは。

 


 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 20:13
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