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懐櫻録 2020 その−(12) 東京・浅草 淺草界隈と浅草寺伝法院の枝垂れ桜

【懐かしき浅草松屋デパートと昭和の大富豪再建の雷門】

 

 子どもの頃、両親に連れられてご馳走を食べに行く時、浅草へ行くことが多く、その場合、都電の走っていた千住2丁目から浅草寿町行きのバスに乗ることが多かった。

 

【写真−1 左の角の方には老舗の神谷バーがあり交差点の地下街も面白い】

 

 千住からは北千住駅に東武線が通りその終点は淺草だから、そちらに乗れば速く簡単に行けるはずなのに、バスで行くのは父親は学生時代に浅草近くのバス沿線近くに下宿していたという話を聞いているから、それを懐かしんでいたのかも知れない。

 

 写真−1の中央に写るクラシックなビルはデパートの『浅草松屋』で、このビル内に東武線浅草駅があり、子どもの頃この屋上に上がって日本で最初の屋上遊園地で遊び、屋上からの眺めは隅田川が左右に広がり風の強い日は怖かったが、今は川沿いにはビルが遮る様に建ち隅田川は見えなくなって残念。

 

 この浅草松屋ビル、1931年に竣工の年期物で、1974年に外装を近代風に改装してしまうが、2012年に写真の様に竣工当時のデザインに戻し、デパート業は不振でも建て替えなくて良かった。

 

【写真−2 コロナ禍でこういう賑わいは消えている】

 

 写真−1の右側には『言問橋』があり、その先は『スカイツリー』へ至るが、写真−2は言問通り沿いにある『雷門』で、大提灯の下をくぐると仲見世、浅草寺境内に続く。

 

 雷門前は常に人だかりがして賑わうが、この時道路上で袴と着物姿の男女が右側に写っていて、結婚記念の撮影だと思うが、ここは歩行者天国ではなく信号の合間に撮影しても、なかなかシャッター・チャンスは得られず、通行人は横目で通り過ぎて行く。

 

 雷門は正しくは『風雷神門』と呼び、左右に風神、雷神像を安置するが、門は何度も焼失し、最後に焼けたのは1865(慶応元)年で、昭和の1960年に松下電器(現パナソニック)創業者の松下幸之助の寄進で再建されたコンクリート製。

 

【浅草唯一の典雅な空間を放つ伝法院】

 

【写真−3 伝法院通りからチラッと庭園を見たことはあり名園とは知らなかった】

 

 一時は東京の盛り場としては廃れた浅草であったが、近年はスカイツリー見物の海外から訪れる観光客によって復活しても、それに頼り過ぎてコロナ禍で大打撃を受け、特に中国からの観光客に依存し過ぎてそのツケが廻り、これは日本中の観光地に共通するが。

 

 写真−3は桜の樹は少ない浅草寺境内の中で、伝法院にある樹齢300年といわれる枝垂れ桜で、通常の伝法院は中に入れないがこの時は、境内を歩いていたら春の特別観覧の案内が出ていて中に入れるので躊躇うことなく入るが、何十回も浅草寺に来ているが初めてであった。

 

 浅草寺は1945(昭和20)年3月10日の死者10万人を数える『東京大空襲』で本堂などことごとく焼失しているが伝法院は免れ、雑踏の仲見世の外れに典雅な空間があるなと気が付いてはいたが、中に入って浅草にこんな空間があるのかとびっくりした。

 

【写真−4 左の方には再建したコンクリート製の五重塔がある】

 

 伝法院の敷地は7700坪余あり、その内写真−4に見える庭園は半分ほどの面積を占め、庭園は小堀遠州の作と伝えられているが良くある『伝』で、庭園の様式としては池の周りを巡る『回遊式庭園』に分類される。

 

 この庭園は2011(平成23)年に国の名勝に指定され、2015(平成27)年に院内の客殿、大書院など6棟が国の重要文化財に指定されたが、写真−4の池の向こうに建つ建物は大書院で、これだけが1871(明治4)年に造られ、他の5棟は1777(安永6)年に造られている。

 

 その大書院の両側に枝垂れ桜、屋根の向こうにはスカイツリーが姿を見せ、造園当時は考えられない不思議な光景で、それにしても雑踏という言葉の似合う浅草にこの様な池があったのには恐れ入るが、この辺りには『瓢箪池』というのが戦後に埋め立てられるまであったから、水源は心配なかったのであろう。

 

【相変わらず活気のない六区の通りとすき焼きの味】

 

【写真−5 この通りに外国人観光客が来れば復活するが全く見ない】

 

 浅草といえばかつての映画などの興行街『六区』だが、写真−5は六区の本通りで右側の白い塀の連なる場所には日本で一番古いといわれた名画座2館、手前の方にもピンク映画専門館があったが全て消えてしまった。

 

 映画館の跡地はどういう訳かパチンコ屋が進出し、この跡地もパチンコ会社大手の所有となっていて、東京に居た頃ずいぶん通った池袋の名画座も同じパチンコ会社の所有になって建て替えられ、そのビル内で新たに営業しているのは恵まれているといえば恵まれている。

 

 六区の名称は明治期になってこの地を七区に分けて、浅草寺裏の境内で興行をしていた芝居小屋などを六区に移したことから始まり、その名称は浅草唯一のストリップ劇場の『ロック座』に残るが、他に落語などの演芸場1館だけとあっては六区から活気が失せ、斜陽となるのは当然である。

 

【写真−6 これで2人前だが昔は生卵を使って食べることはしなかった】

 

 浅草には老舗の食べ物屋が多くあり、そういった店に父親は浅草に来ると連れて行ってくれ、子どもの味覚には少々早過ぎたとは思うが、ネットに依存する様な時代ではなく、舌を肥やすにはいくらか役に立ったのではないかと思う。

 

 それでも、『ヨシカミ』のクリームコロッケ、『アンジェラス』のショートケーキなど子どもでも美味いと思ったし、父親が日本で最初にハンバーグステーキを出したといっていた店など記憶に残る。

 

 写真−6は六区近くにある『米久』のすき焼き。以前古い店構えに引かれて入ろうとしたらハトバスの団体客が押し寄せていて敬遠したことがあり、ホテルもそうだが団体客を取るようになると駄目になる例が多い。

 

 明治創業のこの店は『牛鍋』と呼び、横浜の関内にある店でも牛鍋といっていたのを思い出すが、こちらの味の方は値段を考えるとソコソコという感じで、この手の店はお新香が美味いと期待したら、八百屋で売っている出来合いの方がズッと良かった。

 


 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 19:41
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懐櫻録 2020 その−(11) 山梨県甲府市・城跡の八重桜と富士川に富士山

【すっかり変わってしまった甲府駅にびっくり】

 

 神代桜を観た後、中央線日野春駅へ戻り甲府駅で降りる。甲府駅に降りたのは数十年ぶりで、その頃の甲府駅は平屋の木造駅舎であったような記憶があり、写真−1の様な堂々たる駅ビルになっていてびっくりした。

【写真−1 こういう駅ビルも郊外型ショッピングセンターに負けている】 

 

 この手の駅ビルは日本全国同じ様な具合に造られ新味はないが、甲府駅の場合は1985年に竣工しているから、木造の駅舎の記憶は時間的には間違いなく、開業当時は『エクラン』と名乗っていたが、経営が変わって現在は『セレオ』と呼ぶ。

 

 甲府駅傍には老舗のデパートがあって、健在ではあるがその昔の勢いを失っているのは明らかで、駅前にスターバックスの店があったので入るが、若い人が多く座って賑わっていて、地方都市でも完全に定着しているのが分かる。

 

 甲府駅に降りたのは数十年ぶりと書いたが、その時は甲府盆地を見下ろす地に出来た『甲府ユースホステル』の開所の手伝いに来ていて、このホステル、後年に問題を起こして今はやっているのかどうか分からず残念。

 

【写真−2 国産材と古来の工法で造られた】

 

 その日は予約を取っていた『東横イン』に泊まるが、これが東横インに初めて泊まることになり、写真−2の門の左の方にその建物が見える。同ホテルは食事のサービスをしていたが、甲府の名物を食べるために夜の街に出る。

 

 写真−2の門は2013年に復元された『鉄門(くろがねもん)』で、甲府城は別名『舞鶴城』と呼ばれるが築城当時の物は石垣と堀くらいで、2000年代になって建物の復元を順次行っている。

 

 甲府といえば『武田信玄』だが、信玄は『躑躅ヶ崎館』という甲府市内の館に住んでいて、現在の城になったのは徳川期で親藩として続き、幕府領の時は『甲府勤番』が設置され、六義園を造った柳沢吉保も一時期城主となっている。

 

【城址の中は樹木は少ないが八重桜が満開】

 

【写真−3 かなり太くボリュームのある八重桜】

 

 中央に石垣だけを残すかなり高い天守台があり、市内を見晴らすには絶好の地だが、その近くに写真−3のかなり樹齢を重ねた八重桜が枝もたわわに咲いていた。

 

 八重桜はソメイヨシノが咲き終わってから咲く種類が多く、そのボッテリした花びらの様子と色合いは独特だが、八重桜といえば実家の庭にあったのを想い出す。

 

 先年亡くなった従兄の家にも八重桜が植えられていて、訪ねると花を塩漬けにし白湯の中に入れた『桜湯』を出してくれたが、これはその庭で咲いていた八重桜からの自家製で、その微妙な塩加減と甘くほんのり香る具合は春を思い出す。

 

【写真−4 雨上がりに太陽を背にすると見える現象であるが】

 

 甲府市では毎年4月に『信玄公祭り』が開催され、城址にもその幟が折からの強風にはためいていたが、祭りは戦後から観光振興で始まったもので、信玄の命日の4月12日の前の金曜日から日曜日に行われるという都合の良い祭り。

 

 あれは10代の終わり頃だと思うが、旅の目的も行き先も思い出せないがザックに寝袋を入れて甲府駅に降り、すぐ傍の甲府城へ行きその夜の寝場所を確保したが、今と違いまだ世間は不審者とすぐに通報するような時代ではなく鷹揚であった。

 

その同じ城跡に立ってどこで寝たのかと考え、天守台跡の上から甲府市内を眺めていると、写真−4の復元された建物の向こうに虹が架かった。映画の主題歌から来ているのかも知れないが、虹はどこで見ても気分が晴れ晴れする。

 

【甲府から再び身延線に乗って富士市へ】

 

【写真−5 使われている車両は明るく昔乗った薄暗いのとは大違い】

 

 日本五大桜の内、四つを観て残るは福島県三春町の『滝桜』のみとなり、甲府から東京へ戻るところだが、伊豆に住む知人の所に行くために身延線で富士市に出、そこから熱海に向かう。

 

 身延線は甲府−富士間に敷かれた路線で、全長は88.4キロあり、写真−5は乗客のほとんど乗っていない車窓から見た富士川で、谷間を走る路線の所々でこの様なゆったりした景色を見せてくれる。

 

 中学生の頃、この富士川沿いにある寺へ夏休みに行ったことがあり、何という寺であったか思い出せず、日本へ行った時にそこで受験勉強をしていた兄に、そのことを聞いたら兄は良く記憶していて寺の名前は分かったが、この時はどこの駅で降りたかと記憶を探っていた。

 

【写真−6 こういう景色を毎日見られたら気持ちも大きくなる】

 

 富士山麓に咲く『下馬桜』を観た翌日の早朝にホテルから富士山の姿を見たことを書いたが、身延線で富士市に近くなって写真−6の様に富士山の姿を望むようになった。

 

 霊峰と呼ぶようにその姿は確かに端麗で威厳を持つが、奥穂高岳や槍ヶ岳など3000m級の山に登った経験のある小生もまだ富士登山の経験はなく、一度登ってみたいと常々考えている。

 

 ところが、コロナ禍で今年の富士山の登山道は全面閉鎖が決まり、登山が出来なくなった。これはヒマラヤも同じで身体が元気な内に行きたいと思っていたが、仕方がないといえば仕方がなく『山』は逃げないと思って我慢するしかない。

 


 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 19:40
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懐櫻録 2020 その−(10) 日本五大桜の4番目 山梨県北杜市・八ヶ岳と南アルプスを望む神代桜(じんだいざくら)

【天気が良ければ八ヶ岳が見えたのに】

 

 富士吉田市狩宿の『下馬桜』を観た後、当日は富士吉田駅前のホテルに泊まり、翌朝身延線で終点の甲府駅へ向かい、甲府駅から中央線に乗り換えて『日野春駅』で下車し、次の『神代桜』を目指す。

【写真−1 冬は寒い土地なのではないか】 

 

 東海道線富士駅から乗った身延線は、中学生の頃に乗った頃から駅も車両もかなり近代的になって富士川沿いを甲府に向かって走り、最近、中学の夏休みを過ごした富士川沿いのお寺の名前を知ったが、この時は全く記憶は蘇らなかった。

 

 甲府駅で中央線に乗り換えて新宿と反対方向へ行く普通列車に乗り、6つ目の駅『日野春』を目指すが、写真−1はその途中で見た春の甲州路の景色で、桃の花が花盛りで、耕された土の色と柔らかな下草の緑色が目に優しい。

 

 山梨は桃や葡萄などの果樹栽培の盛んな土地で、桃といえば小学生の時に父親に連れられて大菩薩峠登山に泊りがけで行った時、駅から延々歩いて或る農家で桃をご馳走になった記憶がある。

 

【写真−2 線路は段丘の上を走っている】

 

 写真−2は『日野春駅』の正面で、印象的な駅名だが既に一帯は八ヶ岳山麓に連なる高原地帯で駅の標高は615メートルあり、晴れていれば駅舎の向こう側に八ヶ岳の山塊が見えるはず。

 

 いかにも田舎の駅の風情タップリの日野春駅舎だが、写真でも分かる様に駅舎左に大きな樹があり満開状態。桜の樹の様な気もするし、他の樹種のような気もするがなかなか見事。

 

 日野春駅からは黒蝶の『オオムラサキ』の観察センターや、標高2996mの甲斐駒ケ岳の登山口へ行けるが、目当ての神代桜のある寺までは5キロ、歩いて1時間以上かかるというので駅前に停まるタクシーに乗って向かう。

 

【乱調の天気模様の中花吹雪に遭遇】

 

【写真−3 左側には水仙を中心にした花畑が広がる】

 

 タクシーは急坂を七重八重に曲がって下り、また昇るコースを取り距離はともかくこの道を歩くのは大変と思っている内に『実相寺』に到着。寺の塀の周りに植えられた満開を過ぎた桜の花びらが、折からの強風に煽られて吹雪の様に乱舞し、こうでなくちゃと余韻に浸る。

 

 写真−3は『実相寺』山門から境内を望んだ状態で、実相寺の現在は日蓮宗身延山久遠寺の末寺になるが、その昔は真言宗の寺で武田信玄の時代に現在地へ移転した由緒を持ち、満開を過ぎてはいるが境内には桜がたくさん植えられている。

 

 この山門側はタクシーで来る人が入る場所で、バスの団体や車で来る人は別の場所、写真−3の左側に出入口があり、そちらは出店もあって、最盛期にはかなり混むなと予想させたが、この日は平日で天気が悪かったせいかあまり人の姿は見えなかった。

 

【写真−4 かつては幹の上に保護のために屋根があった】

 

 写真−4が『神代桜』の全容で、幹は巌の様で樹齢が2000年、日本で最も古い桜の樹といわれるが、枝ぶりがいかにも弱っている感じは否めず、1932(大正11)年に国の天然記念物に指定された当時は高さ13m、枝の拡がりは東西南北方向に30m前後あった。

 

 神代桜は『エドヒガン桜』の種類で、エドヒガンは長命な樹になり『淡墨桜』、『石戸蒲桜』もこの種類で、日本に自生する10種類の桜の一種になるが、花が咲くまで育つ期間はかなり長く、樹高10mに達さないと花が咲かないという。

 

【天気は悪かったが境内の花と桜に堪能】

 

【写真−5 日本武尊云々は伝説ながら1本桜としてここに残ったのは不思議】

 

 写真−4の反対側から神代桜を撮ったのが写真−5で地面にめり込んだ様な幹の怪異さは変わらないが、枝の張り具合と花の付き具合に力強さは見られず、特に右に伸びる太い枝に巻かれた保護布が包帯の様に見えて痛々しい。

 

 こういった手当は平成の時代に行われ、樹が弱ったのは樹の周りの盛り土に見物客が歩いて圧縮するために固くなって、根が傷んだのが主因で、土を入れ替えるなど手当てをしたら勢いを取り戻したというから、桜に一番の敵は人間の様だ。

 

 神代桜も大和武尊が植えたという貴種説や、日蓮宗開祖の日蓮が樹勢回復の祈願をしたなどとあるが何れも伝説の域で、日本武尊は東征の時に甲斐の国に来て歌を詠んでいるらしいが、日本武尊といえば三船敏郎が演じた1959年公開の映画を思い出す。

 

【写真−6 時間があればいつまでも佇んでいたい風景】

 

 桜の生えている場所と菜の花畑は定番風景だが、実相寺境内には写真−6の黄色い水仙の花が規則正しく植えられ咲いている。これだけの水仙の手入れはかなり大変と思うが、寺側の熱意は伝わって来る。

 

 寺側の熱意といえば、境内には五大桜を絞った日本三大桜とされる『淡墨桜』と『三春滝桜』の苗木が移植されていて、まだそれほど大きくはないが、育って花が咲いたら新たな名物になるのではないか。

 

 晴れていれば八ヶ岳や甲斐駒ケ岳が桜の花越しに見えるが、時々、小雨が降ったりする荒れた天気で、その雄大な景色は見えず再びタクシーを呼んで日野春駅に戻るが、この一帯は日本で一番日照の長い地域で有名だが、北杜市と命名して北海道の北斗市と紛らわしい市名はいただけない。

 


 

author:cebushima, category:懐櫻録 2020, 19:51
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