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この一枚2020年 セブ篇 その(7) 石原裕次郎とハワイのヨット・ハーバーで写した一枚

 裕ちゃん、あるいは裕次郎と呼ばれ、芸能界で一時代を築いた『石原裕次郎』は1934(昭和9)年に生まれ、1987(昭和62)年に52歳で亡くなり、文字通り昭和を駆け抜けた大スターであった。

 

【ある人からお宝だといわれた】

 

 今生きていたら86歳になるが、80を越したスター裕次郎の姿など見たくはなく、そういえば1970(昭和45)年、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をした『三島由紀夫』は45歳の時で、今年は『50年目』で脚光を浴びているが、仮に今も生きていたら1925(大正14)年生まれなので、95歳。

 そこまで三島が長生きするとは思われないが、三島が70代、80代まで生きていたらどうかという感じがあって、故人には悪いが秀作を残して老醜を晒さなくて良かったという見方もある。

 実際、三島の自殺は自己の老醜を晒すのが嫌なことが動機になっている、或いは太宰治の死に様に張り合ったためなどと、分析をしている評論家もある。

 

 本HPで新型コロナ・ウィルスのためにセブ島はロックダウン中で、小生は一歩も自宅から出ていないことを書き、何十年も埃を被っていた資料などを改めて整理したが、その中でいくつかの写真が出て来たので、標題を書き綴ることにする。

 

 この写真は1980年7月の下旬に撮っていて、場所はオアフ島ホノルルに在る『アラワイ・ヨット・ハーバー』内のヨット係留桟橋で、年月を覚えているのはこの年に第2回『パンナム・クリッパー・カップ』レースがホノルル沖を舞台に開催されたためである。

 

 パンナムというのはパン・アメリカン航空のことで、この会社は1927年に創業し、アメリカの航空業界を引っ張った会社であったが、1991年に経営破綻して今はなく、ハワイで呑気にヨット・レースのスポンサーをやっていた時期は会社が傾き始めていた。

 

 パンナムは太平洋横断路線を最初に開拓した会社で、1935年にサンフランシスコ−ホノルル−マニラ間を、3機しか製造されなかった四発の飛行艇『マーチンM130』を使って横断し、翌年にマニラ−香港まで延伸させた。

 

 その時代の飛行は経由地の高級ホテルで泊まりながらの飛行で、4泊5日もかけたというから時代を感じさせるし、豪華客船並みの設備と対応で大型機使用にも関わらず乗客数は14名のみという贅沢さ。

 

 さて、ハワイのパンナム・クリッパー・カップ・レースは隔年ごとに開催され、第1回は1978年からで、パンナムが倒産後は日本の音響メーカー『ケンウッド』がスポンサーになりしばらく開催されていたが、いつの間にか消滅した。

 

 音響メーカーのケンウッドがヨット・レースのスポンサーになった経緯は分からないが、日本の1980年代のバブル景気と関係があるだろうし、ケンウッドはセブの経済特区にも工場を造ったが、いつの間にか撤退した。

 

 その後、ケンウッドは日本ビクターに吸収されケンウッドは消滅するが、パイオニアと並んでサンスイという名前で商品を作っていたケンウッドの音響機器は定評があり、小生もパイオニアにするかサンスイにするか悩んだ記憶を持つ。

 

 小生がなぜこの時にヨット・ハーバーに居たのかは長い話になり端折って書くと、6月に横浜を52フィートのケッチで出航し、一ヶ月後にホノルルのアラワイ・ヨット・ハーバーに接岸するが、2人で立つ背後に写る船がその時の船である。

 

 石原裕次郎はハワイに自分のヨット『コンテッサ掘戮鮹屬い討△蝓△海料イ妊蹈好▲鵐璽襯后櫂魯錺ご屬鯀る『トランパック・レース』に参加していたが、その船がこのハーバーに在るのかどうかは覚えていないが、フラッとやって来た。

 

 その印象は大スターにも関わらず気さくな感じで、同じヨット乗りとして普通の話題を交わし、帰り際に記念写真をと希望すると御覧の様に肩を抱いて応じてくれたが、シャッターを誰が押したのか記憶になく、多分一緒に来た人が撮ってくれたのではないかと思う。

 

 『パンナム・クリッパー・レース』に戻るが、第2回大会には日本からレース艇が3艇参加し、今も艇名を覚えているが名古屋から参加した『朝鳥』は往復ハワイを自力で回航してレースに参加するが、往航の時に無線で連絡を取っていたためにハーバーで船内を見物した。

 

 レース艇というのは居住性は全く考えられていなくて、こういう中に何週間も生活して名古屋からハワイまで来るとは大変だなと思ったが、そこは三度の飯よりもヨットに乗っている方が楽しい人々で屈託はなかった。

 

 『雲柱』という日本のヨット・レース界で名声を馳せている大型艇は回航ではなく、貨物船に積んでハワイまで運んでいて、このようにレース艇を貨物船に載せて参加する艇も多いが、よほどオーナーの資金力がないと出来ない。

 

 もう一艇は沖縄から参加した『ティダ』という船で、この船は沖縄から自力回航したのか船に載せて来たのは不明だが、沖縄でも国際レースに参加するほどのヨットの好きな人が当時から居たという証左になる。

 

 そのレース結果だが、雲柱が短い三角レースで1位を獲ったこともあったが、全体的に振るわず日本のレベルはまだまだ世界のレベルに達していないことを知らしめた。

 

 ところが、1982年の第3回大会で、福岡から回航して参加した『飛梅』が総合優勝するという、日本のヨット・レース開闢以来の快挙を成し遂げた。

 

 ヨット・レースは様々な大きさの艇が参加するためにレーティングを作ってクラスに分け、クラス優勝、総合優勝と栄冠を与えるが、この時の大会は8ヶ国から75艇、日本からも12艇が参加した中での快挙は歴史を作ったといっても過言ではない。

 

 横浜からヨットでハワイまで来たと書いたが、単独ではなく艇長以下6人が乗り組んで走ってきたが、そのコースは三陸沖まで北上しハワイを目指すが梅雨時の日本近海は荒れるに荒れて、ハワイ近海へ到達するまで船酔いが抜けず苦しんだ。

 

 往航は風が真向かいから吹くために大飛沫を受け船内はビショビショ、船酔いで苦しんだが、復航は乾いた貿易風を後ろから受けるために快調で、このまま何日でも航海を続けて良いと思いながら小笠原の父島に入港する。

 

 父島にしばらく滞在して、横浜には3ヶ月ぶりに帰ってきたが、街の明かりがずいぶん明る過ぎるなと感じたが、長期のヨット生活で夜目が利くようになったためで、恙なく航海を終えたことに安堵した。

 

 後年、石原裕次郎が亡くなった時はアフリカ・ザンビアに行くための準備を東京でしていた時で、その訃報を聞いた時は裕次郎のファンではなかったが、一つの時代が終わったなと思った。

 



 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 21:39
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この一枚2020年 セブ篇 その(6) 或る日のセブ島北端の市場にて

 フィリピンの町の成り立ちは教会を中心に役場や学校があって、その周りに小売りの店が並び野菜、魚介類、肉類、小雑貨を商う大きい『市場』を持つのが多く、これはスペインの植民地であった中米、南米も同じような街作りになっている。

【写真−1 時間帯によって売られる物が違って来る】

 セブでは市場のことをスペイン語と同じ『メルカド』と呼んでいるが、マニラを中心に話される『タガログ語』では『パレンケ』と称し、マニラでメルカドといっても通じず、両者の使う言語は別物と分かる。

 写真−1はセブ島北端にある町の市場の魚を売っている様子で、同じ建物の反対側では肉を売る店が並んでいて、魚と肉を同じ場所で売っているのは普通の光景で、異臭と共に常に床は濡れていて軟な観光客には及びでない。

 ここで売っている魚は都会とは違って『地産地消』を地で行く、すぐ傍の海でしかも今朝獲った様な魚ばかりを並べていて、新鮮であることは間違いなく売っている種類も時間帯によって違って来る。

 写真手前の魚は日本で『マルソウダ』といわれる魚でカツオの仲間だが、カツオはフィリピンでも多く水揚げされるが、主にスープに使われることが多く、生食はほとんどしない。

 時々、市場で丸々と太ったカツオが売られていて、これは刺身にしたら美味いだろうと捌いたことがあったが、南の海で獲れるカツオはさっぱりし過ぎていてあまり美味くなかった。

 日本のカツオの刺身が美味いのはシソの葉とかネギ、ニンニクといった薬味と、酢橘や醤油が上手に調和しているためで、薬味などはフィリピンでは手に入らず、似たような物で代行しているため味が今一つなのは仕方がない。

 その奥のタライに山盛りしているのはイワシの小魚で、これは新鮮な内に生食することが多く、料理名は『キニラウ』と呼んでいて、この料理は魚だけではなく新鮮な肉や野菜でも作られている。

 キニラウというのは日本流にいえば『酢締め』になるが、日本と違うのはココナツから作られた酢と白いココナツ・ミルクで調味してあることで、その作り方は小魚を一匹、一匹頭と内臓を手で除けるために結構手間はかかる。

 

 写真−1を見ても分かるように小魚の内で食べてしまうため、資源の枯渇も考えられるがあまりそういうことは考えずに、獲れるだけ獲ろうというのがフィリピンの漁業で、小さな船でその日暮らしで獲る零細漁民のために仕方がないようだ。

 

 かつて魚は貧乏人が食べる物となっていたが、最近は高騰気味で豚肉と比べても値段が変わらなくなっていて、調理の手間や実際に口に入る量を考えると気軽に魚を食べる時代ではなくなった。

 

【写真−2 有機玉子とか有精卵といった玉子ではなくいかにも大量生産品】

 

 フィリピンのスーパーマーケットでは1ダース入りのプラスティック容器に詰められている玉子だが、市場では写真−2のように紙の容器が使われ、一段は30個入りだが、まとめても良し1個でも良しという売り方になっている。

 

 日本では玉子は物価の変動が少ない優良食品だが、フィリピンも同じであまり価格の変動はなく、写真の玉子1個当たり6ペソから7ペソで売られ、日本円換算では13円から15円になる。

 

 この町の沖合に3つの町に分割する割合大きな島があって、その島は玉子の一大生産地で、以前聞いた話では1日100万個を産するというからかなりの数で、産地に近い割にはそれほど値段は安いとは思えず、流通の問題があるのだろう。

 

 日本では普通に食べられている玉子だが、フィリピンではまだ高級な食材になり毎朝食べるようではないが、自宅で鶏を飼って新鮮な玉子を食べている家庭も多く、その辺りは日本とは違う環境でもある。

 

 玉子といえば日本人は『玉子かけご飯』を思い出すが、フィリピン人や欧米人は生で玉子を食べることはなく、これは玉子処理の中で菌が付いて食中毒を起こすからと恐れている訳から来ている。

 

 実際、小生が市場で買ってきた玉子を玉子かけご飯にして食べたら、フィリピン人は奇異な目で見ていたが、これは食習慣もあって欧米人に玉子かけご飯を食べさせたら美味いといってお代わりされた例もあり、温かいご飯と醤油、新鮮な玉子の玉子かけご飯は絶品という人も多い。

 

【写真−3 セブ北部バスターミナルからここまで約3時間かかる】

 

 写真−1の市場のある辺りはセブから来る長距離バスのターミナルもあって、かなり賑わっているが、町の中心部から移転したものでかつては海際にある町役場の横にあり、最近はこの町のように市場を広い場所に移転する自治体も多く、これは人口増と関係していて、この町の人口は8万人に近い。

 

 写真−3は市場へ通じる道路で商売をしている『移動パン屋』で、トライシクル(3輪バイク)を改造しているが、左の2台が同じ色、仕様なので売っている人は機材を借りて商売をしているのか知れない。

 

 フィリピン人はアジアで一番米を食べる人と知られるがパンも良く食べ、どんな小さな町にでも必ず焼きたてのパンを売る店が何軒もあり、中には24時間営業という店もある。

 

 移動パン屋は市場まで来るには大変な集落を回って商売するには小回りが利いて都合良く、それなりに商売になるのだろうが一日どのくらいの売り上げになるのか気にかかるところである。

 

 写真−3の後ろ側に赤い屋根の建物が見えるが、ここは日用雑貨や米などを売る店が駒割りで連なっていて、人の出入りも多いが、2013年の台風『ヨランダ』では全部の屋根が吹き飛ばされる被害を受けた。

 

 その被害も既に復旧しているが、ヨランダの爪痕が残る建物が市場手前にあって、屋根は吹き飛ばされたまま、鉄骨は曲がったまま、コンクリートの床は大きく波打って残骸のように姿を晒している。

 

 当初、この建物は魚と肉を商う市場にしようと造ったらしいが、欠陥があったためか使われず、そして台風被害が駄目押しのようになって現在に至るが、町で造った建物だからさっさと撤去するなり建て直せば良いと思うが、町と業者間の癒着でもあったのかそのままである。

 

 この町の政治も現町長一族が牛耳っていて、前町長など国家警察の高官から町長であった妻の地盤を引き継いで1期を務め、この前町長は大統領から違法薬物関与者と名指しで挙げられていて、昨年には町長一家が港で何者かに襲撃を受け銃撃された事件もあったが、その息子が町長の座に就いている。

 


 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 19:25
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この一枚2020年 セブ篇 その(5) 風で倒れた樹を伐って家具用材を確保

 昨年12月にフィリピンには大きな台風が二つも襲来し、一つは12月2日に二つ目は12月24日にフィリピンの台風銀座といって良い、レイテ島、サマール島を通過した。

【写真−1 業者が売ってくれと来たが勿論売る気は全くない】

 二つ目の台風はクリスマスを直撃し、日本と違って12月にフィリピンに台風が来るのは珍しくないが、クリスマスに直撃するのは3年ぶりで、その前は1988年であったからそう多い訳ではない。

 台風の命名は国によってバラバラでどうにかならないかと思うが、その年の発生台風を順番に番号を振って呼んでいる日本は一番分かり易いが、大きな台風の時は『何とか台風』と名付け、小学生の時に経験した『伊勢湾台風』は想い出深い。

 フィリピンはアメリカ式の人名を付ける方式で、その命名の順番はアルファベットのAから始まり、アメリカのように女性名だけではなく男性名もあり、先述した12月2日の台風は日本では28号だがフィリピンでは『ティソイ=T』、12月24日の台風は『ウルスラ=U』とアルファベットの順番に命名されている。

 これらの台風は国際名があり、中国名も名付けられていて紛らわしいが、中国など昔は台風に命名などしていなかったような気がするが、気象関係の国際的な機関のトップを中国が押さえ中国名が付けられている気もし、こういった分野にも中国の覇権主義が働いているのだろうか。

 中国は国際機関のトップの座を取るのに執心で、既に現在4 機関を押さえているし、世界を震撼とさせている新型コロナ・ウィルスに対処する世界保健機構(WHO)事務長に中国の息がかかった人物を据えたために、中国擁護故に対策が後手後手になっていると批判が起きている。

 ちなみに国連は15の専門機関を持つが中国が押さえているのは国連食糧農業機関(FAO)、国連産業開発機構(UNIDO)、国際電気通信連合(ITO)、国際民間航空機関(ICAO)の4機関で、食、工業、通信、運輸と何れも重要な分野であり、中国のしたたかさを感じさせる。

 アメリカに次ぐ経済規模を持つ中国が国際世界で発言権を持つのは当然であるが、中国は一党独裁、民主的には程遠い国で、その党の意向、方針に従うことが最優先であり、そのため国際機関での中立性が疑われるのは仕方がない。

 

 国際犯罪に対処するインターポールのトップに中国の警察高官を送り込んだは良いが、その人物が汚職で中国に一時帰国中に逮捕、有罪になった事件を思い出すが、一党独裁体制は刑事機関までも手中に収めて自国に有利にする意図は見え見えであった。

 

 こういったトップは加盟国の選挙で選ばれるが、アフリカには中国の莫大な紐付き援助資金が注入され、嫌でも従うようになっていて、西側の大国でもアフリカの小国でも一票は一票で、早い話が買収同然で選挙になれば中国に票が集まり当選するようになっている。

 

 そういえば先日、国連傘下の世界知的所有権機関(WIPO)の事務局長選挙で次長であった中国人女性が、シンガポールの候補に敗れたのは耳新しいが、知的財産権意識が滅茶苦茶な中国にとっては身から出た錆といって良いだろう。
 

【写真−2 厚いから非常に重く乾燥までにはかなりの時間】


 台風の話に戻るが、クリスマス台風『ウルスラ』はセブ島北端をかすめ南シナ海に抜けたが、セブ島北端は常に台風被害のある地域で、2013年の『ヨランダ』では甚大な被害を受け、その時に被害を受けた小舎を先頃、ようやく建て直し時々通っている。

 台風ウルスラでは一帯にかなり強烈な風が吹いて、小舎のある敷地内の樹が何本も根元から倒れ、ヨランダの時は西方向から風が吹いたが、別の台風では東の方から、今回は西の方から吹いて、この地域は風の吹く方向が一定でないことが分かった。

 

その強風で幹線道路沿いに植えてあった直径50センチ近くの樹が倒れ、直接幹線道路には影響はないものの地元自治体から処理を要請されたので、先日現地でその処理を行った。

 処理は業者任せでチェーンソーで板材に伐り出すが、その結果が写真−1で床下の風通しの良い場所に桟木を置いて積んであり、左の白っぽい板が『ジェミリーナ』で厚味100mm、幅200〜400mm、長さは3m以上ある。

 

 右側の赤茶の樹は『マホガニー』で、厚味75mm、幅300mm、長さはやはり3m以上だが、マホガニーという樹は高級な材で、フィリピンで称しているマホガニーは本来のマホガニーとは違う樹である。

 ジェミリーナという樹は成長が早く、10年くらいで直径300mmを悠に超えるためにフィリピンでは植林が盛んで、家具用材に使われるが成長が早い分乾燥させても狂い易く、しかも痩せるために適している材料とはいえない。

 

 しかし、白い肌をしているために着色して上手に塗装すれば、高級材のウオルナットのような風合いを出して化けるので結構家具の部材として使われ、高級材を使用している家具がこの樹であったりしてインチキ臭いのもこの業界。

 

 もう一つのマホガニーというのは中米ホンジュラス産を最高とし、価格も一立米で数百万円もし、既に伐採禁止で市場に出てこないが、木材業界というのは裏の取引で成り立っていることがあって、全く手に入らないということはない。

 

 かつて、東京の江東区で木造ヨットを建造している造船所を訪ねたことがあり、そこの仕事場にマホガニーの大きな材が転がっていて、経営者によると何百万もすると自慢していたように、ヨットの世界ではチークと並ぶ最高級材になる。

 

 それにあやかってマホガニーに似た材だから『フィリピン・マホガニー』と命名し、売り出している訳だが、この業界は桐に似ているといって『南洋桐』と名付けて商売するから別に珍しいことではなく、回転寿司の世界で淡水の養殖魚テラピアを『イズミ鯛』と名付けて商売しているのと変わらない。

 

 写真−2はジェミリーナの枝分かれした部分で幅の広い所で80cmほどあり、形が面白いのでコーヒー・テーブルに良いと思いこれだけ注文して切ってもらったが、厚味が150mmもあって重過ぎ、今一度薄く切る必要がある。

 

 これらをじっくり床下で自然乾燥させて、ジェミリーナは未定だがマホガニーはテーブルの天板に使おうと思っているが、木材の自然乾燥に要する時間は1cm=1年という大まかな基準があって、家具材として使えるのはまだまだ先の話である。

 


 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 18:25
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