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この一枚2020年 セブ篇 その(8) 『山の日』にちなんで−最後に登った木曽駒ケ岳12景

 日本の8月11日は『山の日』で休日になっている。

【写真−1 木曽駒ケ岳の麓にある駒ケ根市の花盛りの蕎麦畑。蕎麦の花の色が紅いのもあった】

 制定は2014(平成26)年で、1995(平成7)年に『海の日』が制定され、海が7月なら山は8月にといったどうでも良い理由で決められた日で、いわれも根拠も何もないが祝祭日などその程度のものだろう。

 今年の山の日は、本来なら2020東京オリンピック閉会式が行われた直後で、オリンピックの余韻に国中が浸っていたところだが、新型コロナ・ウィルスの直撃で1年延期、その1年延長も雲行きが怪しくなり、東京大会は中止の観測も色々な方面から流れ出した。


【写真−2 日本で一番標高の高い所へ運ぶロープウェイ。乗った頃は霧が谷間に巻いていた】

 それでもオリンピック開催しかやることのない日本の首相安倍は強気の姿勢を崩していないが、利権でがんじがらめのオリンピックなど早いところ中止にした方が後遺症は少ない。

 中止になったらオリンピックを目指した選手(今はアストリートなどと気取っていうらしいが)が可哀想、気の毒という見方もあるが、彼ら彼女にはメダルを取ることしか目標はなく、一応あるオリンピックの理念など関係ない世界で動いているだけで、早くいえば目立てば収入の増える芸能人と変わらない。


【写真−3 これが千畳敷カール。登った時期は9月初めで夏の名残りと早い秋の訪れが交差する。左の特徴的な岩山は『宝剣岳(2931m)』】

 中には純粋に目指す者もいるだろうが、世の中は自分の計画通りに行かず涙を飲むことは無数にあり、オリンピックの中止などその一つでしかなく、特別視する方がおかしい。

 と書いても日本人のオリンピック好きは特異でまるで宗教のようになっていて、世界で見ればオリンピックなど一部の人間が騒いでいるだけで、知らない、関心ない国、人はたくさんあり、フィリピンも東京でオリンピックが開催されるなどほとんどの人は知らないし、知る気もない。


【写真−4 千畳敷の縁を登ることから登山は始まるが、このジグザクの登山道はかなりきつく3歩進んでは休みを繰り返す】

 さて山の日に戻るが、例年内外から登山客を夏場に集める富士山登山は、今年はコロナ禍で禁止されているという。

  他の山でコロナの影響によって登山禁止の山という話は富士山以外は聞かないが、登山道に列が出来て歩くのが大変という山は消えて、山小屋などは営業しているのか営業してもかなり制限をしているのではないかと思う。


【写真−5 その縁を登り切った場所で、右手側に視界が開ける】

 最後に山に登ったのは10年以上前の写真で紹介する『木曽駒ケ岳』で、標高は2956mで中央アルプスの中で一番高く、途中には氷河の名残りの『千畳敷カール』がある。

 この千畳敷カールは2600m地点にあるが、ここまで麓からロープウェイに乗って一気に千畳敷駅に行くことが出来、年中無休のホテルもあり冬季は冬季でかなり面白い景色が見られるようだ。

 

【写真−6 雲海の上に御嶽山(3067m)の山頂が覗く。大噴火を起こした2014年の前の写真】

 

 登山は子どもの頃から父親に連れられて東京近在の山に行っていたが、その中で最初に強い印象を受けたのは大菩薩峠(1897m)で、この時は初めてランプの山小屋に泊まり、霧に覆われた熊笹の原の様子が強烈な印象を受けた。

 

 父親は戦前に山のガイド本を出し、日本の山にはかなりの経験者であったが、一番好きな山は『高尾山』といっていたから、高さや険しさ、難しさだけが山の魅力ではないことに達観していたのかも知れない。

 

【写真−7 天気が良ければ登山も楽しく眺望の開けた場所を上下し、彼方に駒ケ岳の山頂が見え窪地には山小屋もある】

 

 その影響で山は好きであったが、堀江謙一のヨット『マーメイド』による太平洋横断から刺激を受けてからヨットに興味を持った。

 

 ヨットもクルージングとクルザー・レースの二刀流で、横浜と油壷のそれぞれのクルーとして乗り、自分では黒いと思っていなかったが顔など真っ黒だと身内にいわれていた。

 

【写真−8 千畳敷カールから登山を始めて2時間ほどで山頂に到達。天気が良ければ運動靴で簡単に往復出来るが、登山届けを書く山である】

 

 それでも時々山には登っていて、その中で初めて奥穂高岳(3190m)、槍ヶ岳(3180m)など3000m級の岩場を含んだ山に登った経験は忘れられない。

 

 奥穂など岩場の横歩きなどあって相当経験は必要だが、この時は山岳部出身の知人に助けてもらって歩いたが、岩場に乗って股の間から下を見た時の恐怖感は半端ではなかった。

【写真−9 山頂は平らで登山客が三々五々休んで雲海を眺めている。山頂からは富士山も見えるはずだが雲に遮られて見えず】

 

 セブに住んでからは登山などはすっかり離れてしまったが、ミンダナオ島北部に『カミギン島』があり、その中央部に『ヒボヒボ山(1713m)』があり、登っているが案内を頼んだ人がゴム草履でスタスタ歩いていたのには驚いた。

 

 この山は活火山で頂上は峩々たる岩場が続き、標高は高くはなくても山が島になっているから眺望は抜群で、海のリゾートで知られるフィリピンも面白い山があると認識を新たにした。

 

【写真−10 山頂には東側に『伊那駒ケ岳神社』西側に『木曽駒ケ岳神社』が祀られ、写真は木曽駒ケ岳神社】

 

 先年、ルソン島中部の山岳地帯を旅行したが、その地域は戦争末期に日本軍が立て籠もり、指揮官の山下奉文が降伏した地にも近く、確かにこの深い山の中に逃げ込めば連合軍も手を焼いたのは分かるし、叔父が戦死したのもその地域であった。

 

 この時は世界遺産にもなっている『棚田』見物をし、当地にも泊まっているが、山の急斜面に良くぞ造ったと思う棚田が眼下に拡がり、その畦道を上下したがかなりの勾配でここで米を栽培していた人々に敬意さえ覚えた。

 

【写真−11 山の陽射しは強くあれほど晴れていた天気も下山にかかっている頃には下から霧が巻いてきて、軽装で登った身には用心が必要】

 

 アフリカに住んでいた時にキリマンジャロ山(5895m)登山を計画したことがあった。ところが現地の飛行機会社で日程を相談していたところ、下腹部が痛くなり、翌日病院で調べたら盲腸で即入院。キリマンジャロどころの話ではなくなり、以後チャンスは失われた。

 

 後に日本へ帰国する時、ナイロビへ向かう機内でキリマンジャロが見えるとのアナウンスが流れ、眼下を見たがどこがキリマンジャロの特徴ある頂か分からず、山はやはり麓から見るものと痛く思った。

 

【写真−12 千畳敷カールの縁に戻って来た。薄い霧の中、眼下に見える建物は日本一高いロープウェイ駅】

 

 東南アジアで一番高いのは『キナバル山(5895m)』で、セブから空路で直接行けるボルネオ島のブルネイを経由するが、地理的にはマレイシアの山になっている。

 

 この山は標高が高い割には1泊2日の日程で登山が出来て、先年ボルネオ島のサンダカンを訪れた時に、もう少し日程に余裕があったらそちらに足を伸ばしたと思うと惜しかった。

 

 海外の山といったら何といっても『ヒマラヤ』で、このヒマラヤ行きは過去に何度も計画をしていて、実現寸前に何らかの用が生じて流れる羽目になってしまい、旅行ガイドの本など日本語、英語で何冊も溜まっている。

 

 このコロナ禍がなければ、今年の秋には念願のヒマラヤ、それもエヴェレスト(8848m)の見えるベースキャンプ(5545m)まで行くことを考え、かなり予定も練っていたがとても無理な状況で、このままでは体力は落ちる一方だから、幻のエヴェレストになりそうだ。

 


 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 19:49
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この一枚2020年 セブ篇 その(7) 石原裕次郎とハワイのヨット・ハーバーで写した一枚

 裕ちゃん、あるいは裕次郎と呼ばれ、芸能界で一時代を築いた『石原裕次郎』は1934(昭和9)年に生まれ、1987(昭和62)年に52歳で亡くなり、文字通り昭和を駆け抜けた大スターであった。

 

【ある人からお宝だといわれた】

 

 今生きていたら86歳になるが、80を越したスター裕次郎の姿など見たくはなく、そういえば1970(昭和45)年、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をした『三島由紀夫』は45歳の時で、今年は『50年目』で脚光を浴びているが、仮に今も生きていたら1925(大正14)年生まれなので、95歳。

 そこまで三島が長生きするとは思われないが、三島が70代、80代まで生きていたらどうかという感じがあって、故人には悪いが秀作を残して老醜を晒さなくて良かったという見方もある。

 実際、三島の自殺は自己の老醜を晒すのが嫌なことが動機になっている、或いは太宰治の死に様に張り合ったためなどと、分析をしている評論家もある。

 

 本HPで新型コロナ・ウィルスのためにセブ島はロックダウン中で、小生は一歩も自宅から出ていないことを書き、何十年も埃を被っていた資料などを改めて整理したが、その中でいくつかの写真が出て来たので、標題を書き綴ることにする。

 

 この写真は1980年7月の下旬に撮っていて、場所はオアフ島ホノルルに在る『アラワイ・ヨット・ハーバー』内のヨット係留桟橋で、年月を覚えているのはこの年に第2回『パンナム・クリッパー・カップ』レースがホノルル沖を舞台に開催されたためである。

 

 パンナムというのはパン・アメリカン航空のことで、この会社は1927年に創業し、アメリカの航空業界を引っ張った会社であったが、1991年に経営破綻して今はなく、ハワイで呑気にヨット・レースのスポンサーをやっていた時期は会社が傾き始めていた。

 

 パンナムは太平洋横断路線を最初に開拓した会社で、1935年にサンフランシスコ−ホノルル−マニラ間を、3機しか製造されなかった四発の飛行艇『マーチンM130』を使って横断し、翌年にマニラ−香港まで延伸させた。

 

 その時代の飛行は経由地の高級ホテルで泊まりながらの飛行で、4泊5日もかけたというから時代を感じさせるし、豪華客船並みの設備と対応で大型機使用にも関わらず乗客数は14名のみという贅沢さ。

 

 さて、ハワイのパンナム・クリッパー・カップ・レースは隔年ごとに開催され、第1回は1978年からで、パンナムが倒産後は日本の音響メーカー『ケンウッド』がスポンサーになりしばらく開催されていたが、いつの間にか消滅した。

 

 音響メーカーのケンウッドがヨット・レースのスポンサーになった経緯は分からないが、日本の1980年代のバブル景気と関係があるだろうし、ケンウッドはセブの経済特区にも工場を造ったが、いつの間にか撤退した。

 

 その後、ケンウッドは日本ビクターに吸収されケンウッドは消滅するが、パイオニアと並んでサンスイという名前で商品を作っていたケンウッドの音響機器は定評があり、小生もパイオニアにするかサンスイにするか悩んだ記憶を持つ。

 

 小生がなぜこの時にヨット・ハーバーに居たのかは長い話になり端折って書くと、6月に横浜を52フィートのケッチで出航し、一ヶ月後にホノルルのアラワイ・ヨット・ハーバーに接岸するが、2人で立つ背後に写る船がその時の船である。

 

 石原裕次郎はハワイに自分のヨット『コンテッサ掘戮鮹屬い討△蝓△海料イ妊蹈好▲鵐璽襯后櫂魯錺ご屬鯀る『トランパック・レース』に参加していたが、その船がこのハーバーに在るのかどうかは覚えていないが、フラッとやって来た。

 

 その印象は大スターにも関わらず気さくな感じで、同じヨット乗りとして普通の話題を交わし、帰り際に記念写真をと希望すると御覧の様に肩を抱いて応じてくれたが、シャッターを誰が押したのか記憶になく、多分一緒に来た人が撮ってくれたのではないかと思う。

 

 『パンナム・クリッパー・レース』に戻るが、第2回大会には日本からレース艇が3艇参加し、今も艇名を覚えているが名古屋から参加した『朝鳥』は往復ハワイを自力で回航してレースに参加するが、往航の時に無線で連絡を取っていたためにハーバーで船内を見物した。

 

 レース艇というのは居住性は全く考えられていなくて、こういう中に何週間も生活して名古屋からハワイまで来るとは大変だなと思ったが、そこは三度の飯よりもヨットに乗っている方が楽しい人々で屈託はなかった。

 

 『雲柱』という日本のヨット・レース界で名声を馳せている大型艇は回航ではなく、貨物船に積んでハワイまで運んでいて、このようにレース艇を貨物船に載せて参加する艇も多いが、よほどオーナーの資金力がないと出来ない。

 

 もう一艇は沖縄から参加した『ティダ』という船で、この船は沖縄から自力回航したのか船に載せて来たのは不明だが、沖縄でも国際レースに参加するほどのヨットの好きな人が当時から居たという証左になる。

 

 そのレース結果だが、雲柱が短い三角レースで1位を獲ったこともあったが、全体的に振るわず日本のレベルはまだまだ世界のレベルに達していないことを知らしめた。

 

 ところが、1982年の第3回大会で、福岡から回航して参加した『飛梅』が総合優勝するという、日本のヨット・レース開闢以来の快挙を成し遂げた。

 

 ヨット・レースは様々な大きさの艇が参加するためにレーティングを作ってクラスに分け、クラス優勝、総合優勝と栄冠を与えるが、この時の大会は8ヶ国から75艇、日本からも12艇が参加した中での快挙は歴史を作ったといっても過言ではない。

 

 横浜からヨットでハワイまで来たと書いたが、単独ではなく艇長以下6人が乗り組んで走ってきたが、そのコースは三陸沖まで北上しハワイを目指すが梅雨時の日本近海は荒れるに荒れて、ハワイ近海へ到達するまで船酔いが抜けず苦しんだ。

 

 往航は風が真向かいから吹くために大飛沫を受け船内はビショビショ、船酔いで苦しんだが、復航は乾いた貿易風を後ろから受けるために快調で、このまま何日でも航海を続けて良いと思いながら小笠原の父島に入港する。

 

 父島にしばらく滞在して、横浜には3ヶ月ぶりに帰ってきたが、街の明かりがずいぶん明る過ぎるなと感じたが、長期のヨット生活で夜目が利くようになったためで、恙なく航海を終えたことに安堵した。

 

 後年、石原裕次郎が亡くなった時はアフリカ・ザンビアに行くための準備を東京でしていた時で、その訃報を聞いた時は裕次郎のファンではなかったが、一つの時代が終わったなと思った。

 



 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 21:39
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この一枚2020年 セブ篇 その(6) 或る日のセブ島北端の市場にて

 フィリピンの町の成り立ちは教会を中心に役場や学校があって、その周りに小売りの店が並び野菜、魚介類、肉類、小雑貨を商う大きい『市場』を持つのが多く、これはスペインの植民地であった中米、南米も同じような街作りになっている。

【写真−1 時間帯によって売られる物が違って来る】

 セブでは市場のことをスペイン語と同じ『メルカド』と呼んでいるが、マニラを中心に話される『タガログ語』では『パレンケ』と称し、マニラでメルカドといっても通じず、両者の使う言語は別物と分かる。

 写真−1はセブ島北端にある町の市場の魚を売っている様子で、同じ建物の反対側では肉を売る店が並んでいて、魚と肉を同じ場所で売っているのは普通の光景で、異臭と共に常に床は濡れていて軟な観光客には及びでない。

 ここで売っている魚は都会とは違って『地産地消』を地で行く、すぐ傍の海でしかも今朝獲った様な魚ばかりを並べていて、新鮮であることは間違いなく売っている種類も時間帯によって違って来る。

 写真手前の魚は日本で『マルソウダ』といわれる魚でカツオの仲間だが、カツオはフィリピンでも多く水揚げされるが、主にスープに使われることが多く、生食はほとんどしない。

 時々、市場で丸々と太ったカツオが売られていて、これは刺身にしたら美味いだろうと捌いたことがあったが、南の海で獲れるカツオはさっぱりし過ぎていてあまり美味くなかった。

 日本のカツオの刺身が美味いのはシソの葉とかネギ、ニンニクといった薬味と、酢橘や醤油が上手に調和しているためで、薬味などはフィリピンでは手に入らず、似たような物で代行しているため味が今一つなのは仕方がない。

 その奥のタライに山盛りしているのはイワシの小魚で、これは新鮮な内に生食することが多く、料理名は『キニラウ』と呼んでいて、この料理は魚だけではなく新鮮な肉や野菜でも作られている。

 キニラウというのは日本流にいえば『酢締め』になるが、日本と違うのはココナツから作られた酢と白いココナツ・ミルクで調味してあることで、その作り方は小魚を一匹、一匹頭と内臓を手で除けるために結構手間はかかる。

 

 写真−1を見ても分かるように小魚の内で食べてしまうため、資源の枯渇も考えられるがあまりそういうことは考えずに、獲れるだけ獲ろうというのがフィリピンの漁業で、小さな船でその日暮らしで獲る零細漁民のために仕方がないようだ。

 

 かつて魚は貧乏人が食べる物となっていたが、最近は高騰気味で豚肉と比べても値段が変わらなくなっていて、調理の手間や実際に口に入る量を考えると気軽に魚を食べる時代ではなくなった。

 

【写真−2 有機玉子とか有精卵といった玉子ではなくいかにも大量生産品】

 

 フィリピンのスーパーマーケットでは1ダース入りのプラスティック容器に詰められている玉子だが、市場では写真−2のように紙の容器が使われ、一段は30個入りだが、まとめても良し1個でも良しという売り方になっている。

 

 日本では玉子は物価の変動が少ない優良食品だが、フィリピンも同じであまり価格の変動はなく、写真の玉子1個当たり6ペソから7ペソで売られ、日本円換算では13円から15円になる。

 

 この町の沖合に3つの町に分割する割合大きな島があって、その島は玉子の一大生産地で、以前聞いた話では1日100万個を産するというからかなりの数で、産地に近い割にはそれほど値段は安いとは思えず、流通の問題があるのだろう。

 

 日本では普通に食べられている玉子だが、フィリピンではまだ高級な食材になり毎朝食べるようではないが、自宅で鶏を飼って新鮮な玉子を食べている家庭も多く、その辺りは日本とは違う環境でもある。

 

 玉子といえば日本人は『玉子かけご飯』を思い出すが、フィリピン人や欧米人は生で玉子を食べることはなく、これは玉子処理の中で菌が付いて食中毒を起こすからと恐れている訳から来ている。

 

 実際、小生が市場で買ってきた玉子を玉子かけご飯にして食べたら、フィリピン人は奇異な目で見ていたが、これは食習慣もあって欧米人に玉子かけご飯を食べさせたら美味いといってお代わりされた例もあり、温かいご飯と醤油、新鮮な玉子の玉子かけご飯は絶品という人も多い。

 

【写真−3 セブ北部バスターミナルからここまで約3時間かかる】

 

 写真−1の市場のある辺りはセブから来る長距離バスのターミナルもあって、かなり賑わっているが、町の中心部から移転したものでかつては海際にある町役場の横にあり、最近はこの町のように市場を広い場所に移転する自治体も多く、これは人口増と関係していて、この町の人口は8万人に近い。

 

 写真−3は市場へ通じる道路で商売をしている『移動パン屋』で、トライシクル(3輪バイク)を改造しているが、左の2台が同じ色、仕様なので売っている人は機材を借りて商売をしているのか知れない。

 

 フィリピン人はアジアで一番米を食べる人と知られるがパンも良く食べ、どんな小さな町にでも必ず焼きたてのパンを売る店が何軒もあり、中には24時間営業という店もある。

 

 移動パン屋は市場まで来るには大変な集落を回って商売するには小回りが利いて都合良く、それなりに商売になるのだろうが一日どのくらいの売り上げになるのか気にかかるところである。

 

 写真−3の後ろ側に赤い屋根の建物が見えるが、ここは日用雑貨や米などを売る店が駒割りで連なっていて、人の出入りも多いが、2013年の台風『ヨランダ』では全部の屋根が吹き飛ばされる被害を受けた。

 

 その被害も既に復旧しているが、ヨランダの爪痕が残る建物が市場手前にあって、屋根は吹き飛ばされたまま、鉄骨は曲がったまま、コンクリートの床は大きく波打って残骸のように姿を晒している。

 

 当初、この建物は魚と肉を商う市場にしようと造ったらしいが、欠陥があったためか使われず、そして台風被害が駄目押しのようになって現在に至るが、町で造った建物だからさっさと撤去するなり建て直せば良いと思うが、町と業者間の癒着でもあったのかそのままである。

 

 この町の政治も現町長一族が牛耳っていて、前町長など国家警察の高官から町長であった妻の地盤を引き継いで1期を務め、この前町長は大統領から違法薬物関与者と名指しで挙げられていて、昨年には町長一家が港で何者かに襲撃を受け銃撃された事件もあったが、その息子が町長の座に就いている。

 


 

author:cebushima, category:この一枚2020年 セブ篇, 19:25
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