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へそ曲がりセブ島暮らし2020年 その(20) 『特攻基地の墓碑銘 赤松海軍予備学生日記』を読む

 広島、長崎の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に出た安倍の挨拶文が、どちらも類似の内容でしかも過去の文言をなぞっただけと被爆関係者から批判されているが、安倍の頭の中身などコロナ対策でも分かるようにその程度のお粗末な人物。



 むしろ、こんな無策の人物を長期間、日本の最高権力者として座らせていることに、日本人の馬鹿さ加減が分かるし、トランプに投票したアメリカ国民と変わらず、それでも4
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程度の鉄板というか狂気の支持者を固めれば政権維持、当選するような選挙制度も何だかおかしい。

 

 お盆休みの帰省がどうのこうのと日本中が騒いでいる中、敗戦の8月は戦記物を読みたくなり昨年11月に日本で買った『特攻基地の墓碑銘 赤松海軍予備学生日記を読んだ。

 書名からフィリピンを嚆矢とする特攻作戦について、海軍特別攻撃隊の関係者が書いた本かと思ったら、特攻とは直接関係のない本で、筆者『赤松信乗』は京都大学法学部在学中に学徒出陣し第14期海軍予備学生になり、教程終了後に海軍予備少尉に任官。

 予備学生制度は1934(昭和9)年に発足し、当時の大学、高専の高学歴者なら複雑な知識の必要な飛行機搭乗員に向いていると、その多くは操縦訓練を受け、特に14期生は特攻作戦で一番戦死者の多い期であった。

 中でもセブにあった海軍飛行隊基地から1944年(昭和19)年10月21日に発進し、未帰還となった『久納好孚』中尉は14期生で、大本営が軍神として華々しく喧伝した10月25日の『関大尉』攻撃より時間的に早く神風特攻隊作戦最初の戦死者と見て良い。

 筆者の赤松元少尉は1944(昭和19)年12月6日に、九州の基地から台湾経由で、フィリピン中部のクラーク中飛行場に降り立ち、近くにある海軍マルコット基地に着任した。

 その頃に赴任していれば、同基地などから飛び立つ特攻機を目撃しているはずだが、その記述は見当たらず、クラーク飛行場と一括して書いているが、この地には北から南の平地に大小13の飛行場があり、特攻隊発祥の地とされる『マバラカット基地』もその一つである。

 筆者は『要務士』として任官していて、要務士というのは航空作戦遂行のために企画、管理、記録、報告などを行い、これは平たくいえば航空隊の総務係で、従来は飛行機を操縦する若手士官が担っていたが、空地分離で予備学生が養成された。

 1ヶ月後の1945(昭和20)年1月6日に連合軍はルソン島リンガエン沖に姿を現し、9日から上陸作戦を開始しているが、筆者着任時から特攻機の動きなどの記述はないと書いたが、もうその頃は満足に飛び立てる稼働機は少なかった。

 それでもクラーク基地からは連合軍に対して全機出撃(と書くと威勢は良いがようやく飛ぶような代物)と戦史上には勇ましく書かれているが、これで完全に消耗し航空部隊としての役割は終わっている。

 1月6日夜に、最高指揮官の『大西瀧治郎』中将はクラークの航空隊指揮官を呼んで、クラーク西方にある『ピナツボ山』に籠って地上戦を行うと指示を出し、筆者の所属する部隊も山に籠る準備を急いでいる。

 大西は『神風特攻隊』を指揮した人物として知られ、日本が降伏した翌日、8月16日に東京渋谷の官舎で割腹自殺をし、そのため、大西を特攻作戦に殉じた悲劇の人物として持ち上げる向きは今も昔も多い。

 ところがその大西、海軍航空部隊に山に入って戦えといった4日後の10日にクラーク基地を後にして台湾へ幕僚と共に退却していて、これは中央からの命令によるもので抗えないというが、大西自身の気持ちで拒否出来たとの部下の証言もある。

 筆者の弟が解説を書いていて、馬鹿に文章の上手い人だなと思ったら、この弟は青春物、ミステリー物、官能物など広い範囲で本を書いている作家で、その解説の中にクラークから台湾に退却しようとした大西一行について面白いことを書いている。

 大西が基地司令に飛行機を出すように命令したところ拒否され、その司令を大西は殴ったという記述があり、結局、飛行機はクラークからは飛ばず、一行はマニラに行ってそこから飛行機を仕立てて台湾に退却するが、その時の基地に取り残された一同の心情の分かる出来事で、これは戦史にも書かれている。

 もっとも、戦史ではクラークから一式陸攻で一行は飛んだとあり、本書ではマニラからダグラス機で飛んだと記述されていて食い違いはあるが、散々特攻作戦で若者を死なせた大西以下の指揮官は台湾に逃げて戦後まで命を長らえた事実は変わらない。

 さて、本書に戻るが、この本は戦場で毎日書いた筆者の日記風になっているが、書いていた日記の原本は降伏して捕虜収容所に入れられた時に没収されていて、収容所内で記憶を頼りに再現、記述している。

 そのため記憶違いによる事実の誤謬や記憶違いはあり、戦記物は本人に都合の良いことしか書かないことが多い中、日本軍の末期における惨憺たる実態を正直に書いていることは認められる。

 クラークを捨てて山に入った総人数は陸海軍で2万人ずつの4万人となっているが、海軍など筆者を含めて地上戦などの経験は全くない飛行機整備員などの寄せ集めで、しかも銃も行き渡らない貧弱な装備で山に籠って戦闘を行う。

 

 戦闘に入ったと書くと勇ましく、その実態は一方的な負けでピナツボ山の奥へ奥へと追い詰められていくが、海軍は立て籠もる地域を13戦区から17戦区地域に区切り、筆者は第17戦区部隊に所属するが、編成時に3000人を数えた兵員で生き残ったのは筆者を含めて10数人、他の戦区部隊も似たり寄ったりの惨状。

 

 この惨状はフィリピン戦線に共通していて、フィリピンの日本陸海軍の総兵員53万人余中、死者43万人を数え、一方、連合軍は150万人の兵力中、3万人に満たない死者であった。

 

 この数字には日本軍と共に逃避行を続けたフィリピン在留邦人は含まれていないし、フィリピン側の兵員死者は多数ということしか分からないし、何よりもフィリピンの民間人死者が100万人以上というから死屍累々の戦場であった。

 

 さて、山に籠った日本軍は最初から用意した食料など足りなくて、現地で略奪、採取のやり放題で自活するが、どの日本軍将校、兵士による戦記物を読んでも最後は『喰う』ことの執拗な記述ばかりになり、本書も例外ではない。

 

 特に日本兵同士で殺し合って食料を奪う記述が本書にはいくつもあって、正に『餓鬼』同然で、『皇軍』などと豪語しても砂上の楼閣の様な日本軍であり、日本人及び人間の悍ましさが伝わる。

 

 本稿その(19)で敗戦直前の7月31日に、フィリピン・ルソン島バギオ北方の山中で戦闘中に胸に銃弾を受けて翌日死亡した叔父のことを書いているが、本書を読んでどうも敵との戦闘ではなく、食料争いで仲間に殺されたのではないかフト思った。

 

 筆者は日本へ帰還後、病に伏すがやがて回復して得度し、実家である徳島県の浄土真宗西本願寺派の寺を継ぐが、病に伏している時に戦友の安否を訪ねる関係者との書簡が掲載されていて、その時期が敗戦後6ヶ月から1年以内に取り交わされていて、当時の戦後直後の世相を感じるし、その心情にはじんと来るものがある。

 

 最後にこの文庫本、ブックオフで110円で買っているが、アマゾンに出品している書店の付けた同じ文庫本の値段は1990円と18倍以上の値段で評価が高いことが分かり、ブックオフに見る目がなかったというべきか。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2020, 18:53
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へそ曲がりセブ島暮らし2020年 その(19) 今年になって一度も映画館へ行っていない−『在外邦人は棄民か−10万円支給の話はどうなった』

 アセアン加盟国の中で、新型コロナ・ウィルス感染者を出している国はインドネシアが断トツと思っていたが、とうとうフィリピンが感染者数でインドネシアを抜くという事態になっている。

【写真−1 セブにあるショッピング・モール内の映画館

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月6日現在のフィリピンの感染者数は11万5980人で、インドネシアの同日の感染者数はやはり11万人台、特にフィリピンは連日4000人から5000人の感染者が報告されていて、感染の勢いは明らかにインドネシアを追い超している。

 3月半ばから都市封鎖を始めたフィリピンは、アセアン諸国の中で速い対応であったし、その規制措置も戒厳令並みの厳しさで対処したが、この5ヶ月間効果がなかったようだ。

 もっとも、政府関係者はこの速い防疫体制を講じなかったら、感染者は今の10倍は超えていたと弁明しているが、自分達の失敗を在りもしない数字で誤魔化し正当化しているに過ぎない。

 ただし、為政者ばかりを責めても新型コロナ・ウィルスは防ぎきれないもので、貧困層の下に『最貧困層』があり、しかもその割合は非常に高い社会構造と、フィリピン人に規制を守るという『遵法』精神が欠けているところも、感染が抑えられない要因になっている。

 

 ということで標題に戻すが、日本は入場者を制限すれば再開可能などという状況の中、3月以来の都市封鎖でフィリピンの映画館は全部閉まり、この先も開かれる見込みは全くない。

 

 フィリピンの映画スタイルは、ショッピング・モールの客寄せと一心同体で、写真−1のようにモール内に6館から8館程度の上映場を持つ、シネマ・コンプレックス方式を取っている。

 

 このスタイルがフィリピン中を席巻する前は、単館で上映する映画館がどこにでもあり、小生の近所にも今は倉庫とスーパーになっている元映画館が残っていて、開館している時に観ておけば良かったなとその前を通る度に思う。

 

 もっとも、今でもセブのダウン・タウンに行くと独立系の映画館が残り上映していて、かつてはハリウッド映画の封切りにこの地域まで行っていたが、モールに映画館が出来てからは足は遠のいた。

 

 近くに2つの映画館を持つモールがあって、小さいながら観やすい座席もありちょくちょく出かけていたが、ここも完全封鎖でいつ再開するかどうか全く分からず、どこのモール経営も芳しくない状況の中、このモールも維持出来るのかという瀬戸際にある。

 

 ちょくちょくこの映画館に行ったと書いたが、どうも今年は行っていない気がするから、正に標題通りの『今年になって一度も映画館へ行っていない』になっているし、最後に映画館で観た映画は何だったのか覚えていない状況である。

 

【写真−2 アメリカ版シネマ・パラダイスか】

 

 映画は子どもの時から好きで、家からすぐの所に映画館はあったし、歩いて10分から15分の範囲で日本映画の封切館が何館もあったし、名画座もあったがこれら映画館は全部閉館、駐車場やマンションに変わってしまった。

 

 海外の映画館にも足を運んでいて、ラオスの首都ヴィエンチャンに滞在中には、メコン川を越えてタイのノンカイに出て、そこのショッピング・センターにある映画館でハリウッド映画を観ていたが、全部タイ語に吹き替えられていた。

 

 タイの映画館で何が嫌かというと、上映前にタイ王室讃歌のフィルムが流れ、その時は必ず立たなくてはいけないことで、、これで立たないと不敬罪で逮捕され外国人にも分かるように画面に英語の注意が書いてある。

 

 フィリピンも同じことをやっていて、上映前に国歌を背景に有名俳優たちが演じるフィルムが流れ、やはり席を立つことを強要されるが、最近はただ横着して立たない若者が多くなって、そのためか警備員が起立しているかどうか確認している。

 

 ハワイのホノルルで『スターウォーズ』の映画を観たことがあって、その時は大盛のポップコーンとコーラを持ち込んで鑑賞するスタイルが、いかにもアメリカという印象を受けた。

 

 写真−2は10年以上前にアメリカミネソタ州へ行った時、とある湖畔で見かけた映画館で、何とも趣のある外観だが、いま改めて写真を見ると中には3館あって、何れも夕方からの上映になっていて、ネット時代になってまだこの映画館が在るのかどうかは不明。

 

 思い出すまま各国の映画館体験を書き綴るが、中国に居た時には香港まで日帰りで映画を観に行くことがあって、今でこそ香港の映画館は全面禁煙だがその当時は館内は喫煙自由の映画館も多く、もうもうたる煙で画面が霞んでいた。

 

 その中国、住んでいた広東省にある市内に演劇を中心にする大きな劇場があり、映画を上映し、ある時『007』の映画がかかるので観に行った。場内は満員であったが、ラブシーンの時は場内の観客に息を飲む感じがあって、まだ途上国という中国を感じさせた。

 

【写真−3 この映画館今も残っているだろうか】

 

 中米ホンジュラスの古都『コマヤグア』に住んでいた時、借りていた家と同じ通り100m先に写真−3の映画館があって、週末の夜だけ上映していた。両側の円い壁のある所が劇場で左右に2館あったが、右側は休館し他に貸していた。

 

 館内は400席くらいあるが、一番入ったなと数えた時でも3桁に行くかどうかでこれで営業は大丈夫なのかと心配したが、上映作品はハリウッド物ばかりで、やはり『007』の最新作を観たがスペイン語のスーパー付きがスペイン語圏で観ている感じがする。

 

 そういえば同じ中米のコスタリカへ行った時に、首都の映画館に行ったことを思い出した。この時は『セックス&シティー』の最新作で、今思えば家人と旅行中に良く観る気になったと思うが、映画館と映画を観る雰囲気は万国共通である。

 

 また、思い出したがアフリカ・ザンビアでは何度も映画館に行っていて、映画館の前でブルース・リーといわれて、その真似を気合と共にやったら周りにいた人が飛び退いたのがおかしく、アフリカでは髪の毛が長いと皆、ブルース・リーに見えるらしい。

 

 そこで何を観たのか覚えていないが、雪山のシーンがあって雪など見たことのないアフリカ人が分かるのかと思って後で聞いてみたら、やはり雪というのものは理解していなかった。

 

 と長々と書いてしまい、この内容も以前書いて触れていることだと思うが、早くコロナ禍が終息して映画館が正常に上映出来るようになって欲しいが、世の中が以前のように戻るには2〜3年かかると見る向きもあり、何とも嫌な時代になった。

 

 蛇足で付け加えれば東京オリンピックは当然中止で、その開会式に出ることしか考えていない自民党の安倍など新型コロナ・ウィルス対応を巡って無能さを暴露しているが、どうしてこんな人物が日本の総理大臣をまだ続けていられるのか、不思議な国だ日本は。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2020, 18:55
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へそ曲がりセブ島暮らし2020年 その(18) 1945(昭和20)年7月31日の戦死

 小生の叔父は日本が降伏した1945(昭和20)年8月15日の16日前、7月31日にフィリピン・ルソン島の山中で戦死した。ということを毎年、この時期に書き綴っているが、75年目を迎えた今、新資料を入手したので改めて書いてみたい。

【こういう文書を見ると字は綺麗に書ける方が良いと思う】

 昨年11月に日本へ行って、長年、胸に引っかかっていた叔父の戦死状況を初めて文書で確認することが出来、写真−1がその文書になる。

 この文書は福島県庁に直接足を運んで取得したものだが、日本の場合、軍籍に就いた者には『兵籍簿』というものが作成され本籍地に保管されるが、叔父の場合は兵籍簿は存在していなくて写真−1の『戦時死亡者調書=戦死調書』一枚しかなかった。

 しかも手書きの癖字の原本からのコピーなので読み難く、暗号を解読するように読み解くが、改めて解説すると、叔父の所属部隊は前々から推測していたが『陸軍歩兵73連隊』と分かった。

 当時の日本の徴兵制では20歳になったら本籍地のある自治体で徴兵検査を受け、本籍地を管轄する連隊に入隊する仕組みになっている。

 東京で生まれ育った作家三島由紀夫が、本籍のあった兵庫県で徴兵検査を受け、風邪であったのにも拘らず『結核』と誤診され、徴兵免除されたのは知られた話だが、農林省の高級官僚であった三島の父親が手を回して徴兵逃れをしたのではないかとの話も残る。

 その徴兵免除が、三島の劣等感となって作品や生き方に生涯影響を与え、その最後がかつて陸軍士官学校のあった現防衛省敷地内での割腹自殺するとは、何とも皮肉で象徴的な出来事であった。

 さて、叔父の本籍は原発銀座、2011年に原発爆発のあった福島県の町にあり、それから福島県の会津若松にある連隊に入営するが、会津若松には歩兵29連隊と歩兵65連隊があった。

 29連隊は仙台編成であったが、1925(大正14)年に会津若松に移り、この連隊は中国大陸を転戦の後、『餓島』といわれたガダルカナルでも戦った歴戦の部隊だが、仏印に移って敗戦はヴェトナムのサイゴンで迎える。

 一方、65連隊の編成地は会津若松、しかし29連隊が会津若松に移った年に廃止され、その後1939(昭和12)年に復活するが、廃止前の駐屯地は朝鮮半島の龍山であった。

 これから叔父は昭和11(1936)年に徴集されているので、時間的には65連隊に入営したと見て良いが、徴兵されて訓練も受けずにすぐに外地の部隊へ向かうとは考えられないが、軍歴を記載した兵籍簿がないと知りようがない。

 『戦死調書』に記されている歩兵73連隊は1936(大正5)年、朝鮮半島の羅南で編成され、1931(昭和6)年の満州事変、1938(昭和13)年の張鼓峰事件に出動している。

 

 最近、日本が中国を侵略した戦争行為を『日中戦争』と記載する例を散見するが、日本は中国に宣戦布告していないので国際法上『戦争』とは呼べず、満州事変の延長『日中事変』あるいは『日華事変』と見るのが正しく、といって呼び方がどうであろうと日本が中国を侵略した歴史は変わらないが。


 時期は分からないが叔父が羅南から母親宛に送った荷物の墨書きの木の札が残っていて、これには羅南と記されていて、既に73連隊に所属していたのが分かる。

 また、金鵄勲章を受けていて、叔父は張鼓峰事件で武功を上げ受勲したのではないかと考えるが、金鵄勲章は戦後の1947(昭和22)年まで制度が残り、戦死したために死後受勲と考えられるが定かではない。

 73連隊は1944(昭和19)年12月にフィリピン・ルソン島のリンガエン湾に上陸するが、叔父の『戦死調書』の『内地港湾出発 戦地到着』という欄には昭和19年12月15日釜山出発、12月29日に北サンフェルナンド上陸と記され、73連隊のフィリピン上陸と平仄は合う。

 釜山から海路24日もかかっているが、既に制海権と制空権を日本軍は失っているこの時期に釜山からフィリピンへ輸送船で行って上陸出来たこと事態幸運で、多くの日本軍輸送船は台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で潜水艦攻撃によって沈められている。

 

 『勤務概要』という欄にフィリピンに上陸した叔父は、翌日から2月5日まで『バウアンノ』という場所で警備という記載があり、この『バウアンノ』がどこにあるか調べてみた。

 

 上陸した場所は現在の『ラ・ウニオン州』で、この州内に似たような自治体があるかと調べると、州中部海岸沿いに『BAUANG』という、現在人口8万人ほどの町があり、フィリピンでは『ANG』の『G』は発音しないが、日本語読みにすれば『バウアン』で、『バウアンノ』の記載は耳から入った発音を書き留めたためで、この地に間違いない。

 

 次に2月10日から3月15日まで『イブラレノ』で戦闘及び警備という記載が続くが、上述のラ・ウニオン州、その隣山側の『ベンゲット州』にも似たような町の名前はなく、これは町の下のある地区の名前のようだ。

 

 『イブラレノ』に続いて、2月15日から6月15日まで、バギオ北方90キロで警備と記載されているが、これはこの地の日本軍が敗走を続け山の中に逃げ込んだ動きの一つで、既に双方が戦うという体を成していない。

 

 山に逃げ込んだ叔父の隊は更に敗走を続け、6月15日から7月18日まで、『マンカヤン』地区警備とあるが警備とは名ばかりで、いかにして食うかと、日本兵は山中を食料を得るためにさ迷い、餓死、病死者が折り重なった時期である。

 

 この『マンカヤン』、ベンゲット州の最北端に『MANKAYAN』という町があり、表記の場所で間違いはない。この地は昔から鉱山の町で敗戦まで日本の三井鉱山が銅を採掘していた歴史を持つ。

 

 叔父の隊と日本の鉱山会社と直接関係はないであろうが、この地は標高1000〜2000m以上の山の連なる山岳地帯で、付近の地図を見ると行き付く所まで敗走したという感が強い。

 

 『7月30日より同島74Kの戦闘……』と同欄最後に記載されていて、……以下は判読不明。ここで死亡の欄には場所『岩木島(ルソン島のこと)バギオ北方74粁』、傷病名『胸部盲貫銃創』とある。

 

 ここで重要なのは同欄の『死亡年月日及時分』に『昭和20年7月31日9時』と記載されていたことで、叔父は胸を撃ち抜かれて翌日に死亡していることで、即死ではなく1日苦しんだ後に死んだことが分かった。

 

 この報告書を書いた人は上官の准尉だが、戦時中の記録がかなりいい加減に残されていることを加味しても、叔父の戦死の時間的経緯はほぼ正確であり、叔父の戦死の状況は分かったといって良いだろう。

 

 こうして、叔父はフィリピン戦で50万人といわれる日本人戦死者の1人として名を連ね、ルソン島の山中に草生す屍として土に還っているが、それにしても降伏する16日前に撃たれて戦死するとは何ともいいようがない。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2020, 20:05
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