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この一枚2019年 セブ篇 その(16) 或る日のカルボン市場にて

 セブ市のダウン・タウンの海岸沿いに『カルボン』と呼ばれる古い地域が広がり、ここにはセブの野菜と果物を一手に扱う市場があって、日夜賑わいを見せている。

【最近は価格表示が増えたが計量用の秤の方は今一つ信用できない】

 カルボンという地名のいわれは今も稼働する火力発電所が近くにあって、その昔そこで燃焼した石炭の燃え殻を捨てて埋め立てたため、石炭の炭素を意味する『カーボン』からカルボンになったとされている。

 カルボンを含む地域はセブの古い通りがあり、戦前に建てられた建物もまだ残っていて、サント・ニーニョ教会やマゼラン・クロスといった由緒あるカトリック施設、戦前に在った日本領事館の建物も残っている。

 拙宅近くに大手のスーパーがあり、時々日用品や生鮮食品を購入するが、魚は全く活きが悪く一度も買ったことはなく、野菜も活きが悪い上に高く仕方なく買っているような状態になっている。

 この手のスーパーもほとんどの野菜の仕入れ先はカルボンから来ていて、セブ島の他の市場で売っている野菜もほとんどはカルボンからで、当然カルボンで買えば値段は安いし新鮮である。

 そのため、時々家人とカルボンへ行って野菜を大量に買うことがあり、先日久し振りにカルボンへ出かけた。

 この日は珍しく午前中に行ったが、いつもは買い物に行くのは夕方から夜半にかけてで、これは日中は暑いことと、夜になるとカルボンの道路上には露店の店がぎっしりと埋まり、そういった露店の店で買う楽しみもあったためである。

 ところが今回、行ってみたらいつもなら路上を占拠している露店の店が姿を消していて、何だか気の抜けたようないつもの感じと印象が違っていた。

 これはフィリピンの自治体を管理する『内務自治省』が、最近全国の自治体に向けて道路を占拠する露店の一掃を命じたためで、セブ市もこれに従い露店商の排除を行ったためである。

 先日、セブ島北部の町へ行った時に、公園沿いに出ていた簡易な食堂がすっかり姿を消していて、こんな地方までに及んでいるのかと驚いたが、その分車の駐車には困らなくなった。

 しかし、排除されてしまったこれらの食堂は近くにいくつもある学校の生徒、学生の軽い食事を摂る場所と社交場でもあり、そういった地域の楽しみも奪うことともなった。

 以前、マニラへ行って有名なキアポ教会を訪れたが一帯は露天商が道路上を占めていて、雑踏そのものだがそういった光景はフィリピンでは当たり前で、これが混沌とした一つの景色を生んでいた。

 ところが、今年の5月に行われた選挙で新しくマニラ市長になった人物が、公道を占拠する露天商の強制排除を進め、華々しく報道もされ、その結果かなりマニラの道路はスッキリしたという。

 セブも新市長になって露天商排除に動いているが、単純に露店といっても店を出すには金が動き、それが利権となって有力者の懐に入る構造で、利権化して既存の政治屋には手が付けられなかった部分であったが、今回の荒療治となった。

 ただし、道自体はスッキリしても露天商として生計を立てていた人々は一体どうなるのだろうという心配もあるし、そういった点についてはこの国の貧しさから排除した側は全く考えていなくて、排除された側も大きな声にはなっていない。

 それに、こうして排除されても時間が経てばその内元に戻るかもしれないし、商店の軒先とか私道上は排除が及ばないので、そういった場所が新たな利権として露天商間で取り扱われ、以前のようになるのでは思ったりする。

 さて、カルボンだが今回行ったのは昼間なので、路上で売るのは皆無ではないが身を潜めているようで、取り締まりの及ばない夜間には前の様に路上に出て野菜を売っているのではないかと感じた。

 さて写真を見ると分かるように、左右の建物は従来のカルボンの公設市場であり、この建物の中に間口2〜3メートルの野菜を売る店が何列にも並んでいるが、露店で野菜を売っていた時はあまり来ない場所でもある。

 道を挟んで右側の建物はフルーツを商う店が入っているが、奥の方には何があるのか分からないような怪しい雰囲気もあり、2階部分は何年も前に火事を出したまま封鎖状態になっていて、直す様子は全くないのがフィリピンらしいところ。

 左側の建物と右側の建物が門のように見える構造物で繋がり、『PUBLIC  MARKET』と表示されているが、今回写真に撮ってこれは左右の建物を繋ぐ歩道橋と分かったが、勿論行き来はできない。

 

 左側の建物の左奥には、やはり鉄筋コンクリート造りの2階建ての建物があるが、この建物、いつから建設が始まったのか分からないが、屋上に鉄筋が突っ立ったままでどうやら建設は長い間止まっている様子。

 

 これからカルボンの公設市場を管理するセブ市は、全く新しくする気も予算もなく、いつまでも雑然とした状態で良いと思っているようだし、たとえ新しくしてもカルボンの生鮮野菜の集荷地と販売地としての地位は同じであろう。

 

 ところが、最近のニュースでこの地にフィリピン最大のショッピング・モール・チェーンを持つシューマート(SM)がこのカルボン地域に興味を示し、再開発をする意向があることを表明している。

 実際SMは首都圏で古い市場を再開発し成功していて、カルボンも従来の特質を活かしたモール造りになるらしいが、そうなると元々資本力のない従来の出店者の負担は大きくなり、そうは簡単にプロジェクトが進むかどうか疑問な点は多い。

 しかし、SMはセブ市を含めて3つの巨大なショッピング・モールを運営していて、その巨大な資本力から考えればカルボン市場が、SMの支配下になるというのはあながち荒唐無稽な話ではない。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 18:43
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この一枚2019年 セブ篇 その(15) セブのD・I・Yの店から

 『Do It Yourself』略してD・I・Yは実用と趣味を兼ねて、かなり発展した分野になるが、拙宅から車で10分ほどの所にD・I・Yに近いホームセンターの店舗がある。

【趣味より実用的な建材店だが家造りでは一通りの材料が揃う】

 写真がその店舗内の様子で、写真でも分かるようにD・I・Yの店というより建築用材店といった方が良いが、その在庫種類は数多く眺めて回るだけでも飽きさせないが、フィリピンではこの手の店は業者向けの面も強く、零細な建築業者が素材を大量に仕入れのために出入りしている。

 日本でD・I・Yの店として知られるのに東急ハンズがあり、1976年に神奈川の藤沢店を皮切りに1978年に渋谷店が開業した時は、物珍しく都度足を運び、海外に出ても帰国する度に渋谷店へ行くのが楽しみであった。

 東急ハンズは趣味の要素の強い品目を多く扱い、他のいわゆるホームセンターとは毛色は変わっていたが、近年は登場した頃の熱気は失せていて、小生も日本へ行った時に足を運ぶこともなくなった。

 

 東急ハンズは新興都市に住む中級の若い層を狙った商売で、国内に多くの店舗を展開しているが、小生の実家のあった東京・千住の駅ビルに東急ハンズが進出した時には少々驚いたが、会社全体の年商1000億近い会社なら当然か。

 千住はイトーヨーカ堂の発祥の地でありながら老人の町といわれて久しく、昔ほど活発な地域ではなくなったが、近年工場跡地に大学がいくつも誘致され若者の姿が目立ち、また、都内でも有数の交通の要所ということで、近年は住みたい街の一つに挙げられている。

 

 あれほど地盤沈下の激しかった商店街も活気を取り戻しているというから変われば変わるものだが、昔からあった店はなくなり、どこの駅前でも見られる無味乾燥なチェーン店ばかりが進出し金太郎飴のような街になっているのは否めない。

 さて、写真の店の説明をするが、建材店のようなものと書いたが、ここでは例えばドアーや便器、浴槽といった水回りやそれに関わる様々な取り付け部品を揃えているし、照明器具や、電材も豊富に揃えている。

 

電動工具類も多いが値段の関係からか中国製の物ばかりで、見た感じは日本製と良く似ているがその性能は使ってみなければ分からないが、日本も欧米諸国のコピー製品を作ることから始まっているからとやかくいうものでもない。

 フィリピンの家造りはかつては木造であったが、今はほとんどがブロック造り、床はコンクリートのためにその上に張るタイル製品は充実していて、あれこれ色取り、風合いを考えてタイルの色を決めるのは面白い。

 

 建材といえば木材になるが、この手の店はアメリカから輸入した針葉樹の規格化された材料を扱っているために値段はかなり高いし、種類も少なく、そのため伐採の許されている椰子の樹を製材して使うことが増えている。

 その他の建築に使う木材はいわゆる材木屋で手に入れることはできるが、フィリピンはかなり前から国内産樹木の伐採は禁止され、現在は木材の輸入国になっていて、国産の木材で家を造るというのは木の産地以外では難しくなっている。

 木の産地と書いたが、その出回る多くも密伐採が多く、法律通りにやっていたら木の家は建たないが、木材業界というのは昔から法律外で動いていた業界であり、お金さえ出せば手に入るという不思議なところでもある。

 

 また、木の家というのは生活する上で人間に優しい環境になるが、亜熱帯の地で活躍するシロアリなどには弱くその被害を止めるためにもブロック造り、タイル張りの家になってしまうのは仕方がないともいえる。

 

 フィリピンは1970年代までは木材輸出が主産業であり、伐採された丸太や製材品の多くは日本に運ばれ、このフィリピンやインドネシアなどで産する南洋材が日本の住宅建設ブームを支えてきた歴史を持つ。

 

 そのため、フィリピンの山は日本が禿山にしたという批判もあり、日本の丸紅などの商社とフィリピン側の木材ブローカーが大儲けしていたという話も残るが、そういった時代を知る日本人も少なくなった。

 

 さて、日本で家を建てるというと工務店や建築会社に頼むのが普通だが、フィリピンでは材料と作業員を手配し、日当を支払って造らせるのが一般的で、手配した作業員は現場に泊まり込んで仕事をすることが多い。

 現場に簡単な小屋がけをし、自炊をしながら作業する様子からは、意外と勤勉なフィリピン人の姿を感じられ、家族を離れて海外に働きに出ることを苦にしない一端が伺える。

 

 そういえば、タイでもメコン川沿いにあるノンカイにはかなり大きなホームセンターがあって、そこへ行くのもラオス・ヴィエンチャンに住んでいた時の楽しみでもあったが、中進国のタイはこの手の商売は増加していた。

 こういった建材など、いわゆるハードウェアといわれる材料を扱う店はフィリピンでは中国系が独占していて、写真の店も中国系で、建材の中でも木材関係は100%中国系が扱っているといっても過言ではなく、その商売の巧さにも驚く。

 こう書いていて思い出したが、中米ホンジュラスに住んでいた時に、車を駆って山道を超え首都へ出て色々な材料を買ったことを思い出した。

 一番大きい買い物は木工用の機械で、現地で日本の神輿を製作する名目で手押しかんな盤やプレーナー、丸鋸盤など何れも小型であったがそれなりに役に立ち、帰国の際は現地に寄付してきたがあれからだいぶ月日が流れて、それら機械はまだ動いているのかと懐かしむ。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 19:32
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この一枚2019年 セブ篇 その(14) 見たようなデザインの車

 週末を挟んでセブ島北の町へ出かけたが、途中の町で写真の車が駐車していた。

【塗装はオリジナルではないだろうが原型を保たれている】

 この町はセブ島西海岸沿いにあり人口15
万人前後、セブ市から車で渋滞がなければ1
時間少々の距離にある。

 この町にはセブ島に数多く進出している日本の企業の中で最大の工場があり、従業員は最盛期には2万人以上を雇用し、業種は電子部品を製造しているが、最近日本のベアリング製造大手と合併して社名が変わった。

 工場はセブ島の幹線道路沿いにあり、従業員の出退勤時間にはゲートから人が溢れ出て見もので、この従業員達が落とす金は巨大な額にあることが分かり、町を潤しているのは確かである。

 セブに進出した日本企業はマクタン島にある経済特区に多く固まるが、この会社がセブ島の外れにこのような巨大な工場を作ったのは、この町を統治する一族の引きがあったとされる。

 この会社、かつてはルソン島のバタアン半島に工場進出したが、労務管理の不味さからトラブルが絶えず撤退に至った過去を持つ。

 この会社の労務管理の不味さはフィリピンに進出する日本企業の反面教師となって、セミナーで取り上げられるほどであったが、セブのこの町を統治する政治一族が『労働争議』を起こさせないとして工場を誘致した。

 まるで、ヤクザが縄張り内のトラブルを押さえ付けるのと同じ構図だが、フィリピンの地元政治屋というのは利権を巡るヤクザと変わらない立ち位置にあり珍しいことではない。

 ただし、本当かどうか分からないがこの政治一族には多額の金が入るシステムがあって、工員一人当たりいわゆる『みかじめ料』が払われていて、そういう莫大な金が入れば地元政治屋は御の字であるし、会社も面倒毎は金で解決できると見て両者持ちつ持たれつの関係は続く。

 フィリピンの政治屋はヤクザと変わらないと書いたが、この町は歴代の市長、副市長、下院議員は全部一族から出していて、これはやはりフィリピン中同じ状況で、父親、母親、息子、娘、縁戚で公職を独占するのは極当たり前である。

 今のドゥテルテ大統領も娘、息子が市長、副市長、下院議員を独占していて、それがおかしいという声など全く起きず、どう見てもその在り方はおかしい。

 しかし、5月に行われた下院選挙でこの一族の候補が落選する番狂わせがあり、勝利したのは選挙区を同じにする町の副町長出身で、この副町長、前は町長をやり3選規定に引っかかるため自身は副町長に退いて、妻を町長に出した。

 この妻、今回の選挙でセブ州知事に返り咲いた人物の娘で、この一族はセブの政治を壟断する有名な政治屋で、何のことはなくヤクザの縄張り争いと五十歩百歩状態。

 フィリピン中この状況だから、誰もこういう形が続いていても不思議と思わず、民主主義とは無縁の選挙が繰り広げられ、利権を巡って汚職はこの国からなくならない。

 さて、標題とは飛躍してしまった記述になってしまったので戻すが、写真の車はその市の役所前の駐車場に停まっていた。

 最初見た時はどこか記憶にあるデザインで、日本製と思ったが、車の外観を調べると製造会社のエンブレムなど身元が分かるような物は一切なかった。

 それでも日本の車であり、かすかにライト回りの形状から『ランサー』という名称を思い出し、資料に当たるとやはりランサーであった。

 ランサーは三菱製で初代の発売は1973年2月からで、初代のデザインは1979年3月まで続き、エンジンは1200〜1600CC、2ドアと4ドアがあった。

 この写真の車は後期型であり、それが特定できたのは右フロント・フェンダーにあるサイドのフラッシャー・ランプで発売当時と全く同じである。

 これからこの車は製造後40年経っていると推定できるが、フィリピンではかなり古い車が現役で走っていて古い車マニアには面白い国である。

 日本では車検の関係もあって10年以上の車に乗ることは少なく買い替えるが、フィリピンでは車検はないために延々と車を使い続けることが普通となり、10年落ちなどまだ新車の方で、20年前の車など珍しくない。

 小生もセブで1969年製のフォルクスワーゲンに乗っていたことがあって、街中でこの古いフォルクスワーゲンを見ることは珍しくはなかった。

 そういう古いフォルクスワーゲンを普通に乗れたのも専門の修理屋が存在し、しかも安価であり、小生も海外に出て2年ほど乗れずボロボロになったフォルクスワーゲンのレストアを行ったが、その仕上がりは見事なものであった。

 さて、写真のランサー、三菱製だが三菱はフィリピン市場では強く日本車の販売シェアでは3位に付けている。

 三菱の人気が高いのはパジェロの存在が高いためで、今は他の高級車種が出ているためにそれほどではないが、パジェロを持つのは金持ち階級のステータスとなっていた時期もあった。

 このパジェロ、日本では製造終了となったが、フィリピンでは続けられるとのことで、三菱は数々の製造不正を行っていて問題になったが、フィリピンではそのニュースは伝わらないのか影響は受けていないようだ。

 自動車会社の製造不正は日本ではかなりのニュースになるが、フィリピンではあまり広がらず、例えばリコール問題にしても日本と比べてどのように処理されているのか全く伝わらず、そういった意味ではフィリピンは途上国状態である。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 19:44
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