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この一枚2019年 セブ篇 その(6) セブで飲む凍ったビールとは

 ある日本食レストランへ行った。このレストランの経営者は昔からセブに住み、テレビ番組に因んだ名前を店名としていたが、どういう事情があったのか現在は経営者が代わり店名も変わった。

【凍った泡で蓋をするからビールの注ぎ方としては良い】

 かつての経営者はセブに来る前に、かなり知られたお笑いグループの一員として相当売れていたらしく、引退後に生い立ちと半生を書いた本を出していて、小生も借りて読んだが結構凄い半生を送っていた。

 セブに古くから住んでいる日本人なら知っている人だが、最近消息を聞かなくなって日本へ帰った、あるいは亡くなったとも考えられるが、セブで亡くなっていればそのニュースは当然日本人の中に流れるであろうから、そういうことではないのであろう。

 さて、名前が代わってから初めて行った店は、以前とは間取りが変化し、居酒屋風になっていて一人でセブに住む日本人が飲みに来る雰囲気となり、そこで頼んだのが写真のグラスにも書かれている『一番搾りフローズン生』。

 フローズン即ち『凍ったビール』など、想像は付かなかったが物は試しと頼んでみるが、小生は今年になってビールを飲んだかどうか分からないくらい、ほとんどアルコールを口にせず、といって全くの下戸ではなく気が向いたらビール、ワインを飲み、それらの美味さは分かっている。

 このフローズン・ビールは日本のキリン・ビール製で、キリンに限らず日本のビールを飲むなど前回日本へ行った2
年以上前であり、本当に久し振りだが日本のビールだからといって盲目的には飲まない。

 さて、店員が持ってきたグラスのビール、凍ったビールなどどういう飲み心地になるかと半信半疑で口を付けると、泡の部分が氷状になっていてその下のビールは冷えた普通のビールであった。

 これで凍ったビールがどのような代物か分かった訳だが、この手のビールがセブに在る位だから日本では極当たり前に出回っているのであろうが、何となく際物的なビールという感じがした。

 それでビールその物の味だが、日本で飲む生ビールの爽快さと味は感じなくて、ビールは生物だから日本からセブへ運ぶ間に味が劣化してしまったのではないか思い、この一杯だけで終わった。

 料金は150
ペソで、フィリピン産で知られるサンミゲル・ビールの小瓶を店で飲んで倍から3倍の値段となるが、この程度なら酒飲みは気にしない値段になるのであろう。

 サンミゲル・ビールは世界的にも有名な銘柄で、先年、中米ホンジュラスに住んだ時、現地のレストランに缶ビールが置かれていて驚いたことがあった。

 

 サンミゲルはビール会社として知られるが、今はフィリピン有数の複合企業になり、道路や空港などの巨大プロジェクトに進出していて、また大手株主として電力、水道といったインフラ事業を支配し、大手石油販売会社のフィリピン・ペトロンも傘下にしている。

 

 セブに在るサンミゲルのマンダウエ工場そばを車で通ると、広大な敷地内には傘下にするコカ・コーラの製造工場もあり、日本の瓶製造会社大手もここで合弁事業を行っていて、そういえばビール製造会社としてのサンミゲルの株式の半分近くは日本のキリン・ビールが保有している。

 

 このサンミゲル・マンダウエ工場だが半世紀以上前に工場が竣工し、その時の開所式に独裁者マルコスの妻イメルダが来たというが、当時のマルコスは大統領に再選された時期で、その後独裁政権に突き進んで行くが、イメルダも得意満面で開所式に来たのであろう。

 国道沿いにビール醸造工場の建屋があって、ビルの高さとすれば7〜8階建てに相当するが、その屋上に大きなサンミゲルのビール瓶が乗せられていて、一目瞭然でここがサンミゲルと分かる。

 ちなみに工場が造られた当時はマンダウエ市で一番高い建物で、工場が出来た当時はセブの端っこのような土地であったが、現在は近くにショッピング・モールが造られたりして不動産開発業者からは垂涎の場所。

 

 敷地面積はいくらあるか分からないが、13ホールのゴルフ場くらいあるいはそれ以上あり、いずれこの工場を郊外に移して、跡地をショッピング・モールやコンドミニアムなどの住宅用地として再開発するのではと思うが、財閥ともいえるサンミゲルを思うとそのくらいは事業計画を立てているであろう。

 

 フィリピンでのビールの飲み方はグラスに氷を入れるスタイルが多く、これは冷蔵庫が普及していなくて冷えたビールが提供出来なかった時代の名残りで、確かに地方のレストランでは生ぬるいビール瓶と氷を出すのが普通であった。

 

 ただし、何十年も前の話だが、フィリピンはどんな田舎に行っても冷えたコーラが飲めるので、それには吃驚した記憶があって、ビールに氷を入れて飲むのは一種の習慣なのかも知れない。

 

 今は割合安全な氷を出すようになったフィリピンだが、出された氷を無神経に使うと外国人は腹を下すことが多く、これは氷作りに不潔な水を使うためではあるが、現地の人は無造作に使って大丈夫だから、外国人の神経質さから来る面もある。

 

 ビールの飲み方は注ぎ方が肝心と色々いわれているように意外とデリケートで、ビールは発泡酒のため含まれる泡の立ち方いかんで味が変わり、上手に泡を立てることが決め手といわれる。

 

 そういう意味では最近多くなった瓶から直接飲むなどビールにとっては外道で、こういう飲み方は『兵隊飲み』といって、戦地ではグラスを用意できないことから始まったと思われるが、ビールの味からは遠く無知で損をしている。

 

 こういった外道の飲み方は品性の劣るアメリカ人から始まったもので、こういう飲み方をするのが日本の若者間で格好良いと猿真似して飲むのが増えているようだが、こういう飲み方をするのは馬鹿としかいいようがない。

 

 そういえば『ラッパ飲み』といって、直接口を着けて飲む行為は、かつては『はしたない』とされていたが、今はボトルからのラッパ飲みは普通でテレビのCMでも盛んに演じられているから、そういうことをいうこと自体お呼びでなく『はしたない』という日本語が消える時代となった。

 

 今、環境破壊の元凶としてプラスティック問題が取り上げられているが、こういった使い捨て文化もアメリカ発祥で、映画などで使い捨て容器のコーヒーカップを持って職場に急ぐ姿など格好いい行為と見る向きも多いが、ああいう使い捨てが積もり積もって環境を悪くしている。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 18:24
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この一枚2019年 セブ篇 その(5) セブの中心『フェンテ・サークル』

 セブ市はセブ州の首都になり、正面に白いドームを乗せた州庁舎があり、このセブ州庁舎は戦前の1938年に竣工した建物で、建造当時の写真を見ると、州庁舎建設地以外は建物は全くなくて野原のような場所に庁舎を建てたことが分かる。

【写真には写っていないが写真を撮った後方右にはセブで最初の40階ビルが建つ】

 スペインの植民地時代からセブは港を控えたダウン・タウン方面が中心で、フィリピン最古の石畳であった道といわれる『コロン通り』があり、教会、行政施設、商業地域が固まっていた。

 スペイン植民地時代のセブは『南の女王』と呼ばれ、フィリピン南部の中心として発達したが、1898
年にフィリピンの支配者はグアム、プエルトリコと同時に戦争を経て、スペインからアメリカに代わった。

 膨張するセブの市街地のためにアメリカは山の手に向かって開発を進め、ダウン・タウンから山の手に向かって片側3車線の大通りを1912年に開通させる。

 その大通りに名付けた名前が『ジョーンズ・ブルバード』で、ジョーンズという名前はアメリカの政治家名であり、いかにもフィリピンがアメリカの支配下にあったかを現している。

 現在、このジョーンズ大通りは『オスメニャ・ブルバード』と改名されているが、オスメニャというのはセブに根を張る政治一族で、特に『セルヒオ・オスメニャ』は4代目フィリピン大統領として歴史に残っている。

 しかし、オスメニャの大統領職は前大統領のケソンがアメリカに亡命中に病死し、副大統領であったオスメニャが自動的に昇格したのであって、選挙によっては選ばれてはいない。

 この時代のフィリピンはアメリカを追い出した日本が軍事支配し、2代目大統領として就任していたケソンは亡命、その代わりに日本の傀儡大統領としてラウレルが就任し、3代目大統領となる。

 この頃は太平洋戦争の時代で、1944年にアメリカ軍がレイテ島の海岸に上陸をした時、オスメニャはマッカーサー達と一緒に上陸し、その様子を似せた記念群像が上陸地点のレイテ島パロ海岸に今もあり、小生も見物している。

 

ちなみに、この侵略戦争を『聖戦』と呼び近年では『アジアの解放』などと、手前勝手な史観が日本には蔓延し出しているが、フィリピンの場合、アメリカは数年後の独立を約束していて、ケソンはその独立準備政府の大統領であった。

 

このことは、日本の戦時中の『八紘一宇』『五族協和』などで象徴するスローガンがまやかしであることに他ならず、最近百田尚樹のベストセラー本などインチキの集成、アジア解放史観が取って付けた言い訳、正当化するものであることは間違いない。

 こういった縁でオスメニャは『マッカーサー・ボーイ』と呼ばれるが、自分の気に入りで周囲を固めるマッカーサーの嗜好に合ったお気に入りであったことは確かなようだ。

 さて、運良く大統領になったオスメニャ、戦後最初に行われた1946年大統領選に自信満々で立候補するが、対抗馬のロハスに破れ、現職で落選という不名誉な記録を作った。

 この時の選挙では当選したロハスが135万票余、得票率54%弱、一方落選したオスメニャは112万票、得票率46%弱という結果であり、総投票数は247万票強であった。

 この数字で驚くのは70年後に行われた2016年大統領選で当選したドゥテルテが1660万票、得票率40%弱で当選したことで、70年前の大統領選は2016年の12分の1以下の得票数で当選している。

 1950年のフィリピンの総人口が1800万人との統計があり、現在のフィリピンの総人口が1億500万人以上もあり、フィリピンの人口が70年間で大爆発していて、貧困削減は難しいことが分かる。

 日本は戦時中に『一億火の玉』といっていたから、一億人程度の人口で、現在、1億2000万人を超えた程度だから、たった2000万人ほどの増加で、いかにフィリピンの人口が爆発、反対に日本は人口が増えず、逆に人口が減る時代に入っている。

 オスメニャは大統領選に落選して政界を引退し、1961年83歳で死去するが、その一族はセブに政治王朝を築き、オスメニャの名前で上下院議員、セブ州知事、セブ市長などを輩出する。

 やくざより怖くて泣く子も黙るオスメニャといわれたが、最近はその威力が衰え、上院議員の指定席も陥落し、今年の上院選でも復活ならず、下位で落選となってしまった。

 金城湯池といわれる地元セブ州での上院選での得票数が10位に甘んじるようでは無理もなく、また、セブ市長選でも長らく座を独占していた人物が落選し、家名で票を集める時代ではなくなった。

 さて、改名されたオスメニャ大通りに戻るが、セブで絶大といわれるオスメニャでも反感を持つ人は多いのか、この通りを走るジプニーの行き先では未だに『ジョーンズ』と書かれている。

 タクシーに乗っても最近はオスメニャといわないと運転手が多くなったが、ジョーンズへというとセブを良く知っている、観光客ではないなとの顔をする。

 こういったことはジョーンズに交わる大通りの『マンゴー通り』でも同様で、この通りは現在元軍人の『ゼネラル・何とか通り』と長ったらしい名前に変えられているが、マンゴーと呼ぶのが普通である。

 マンゴー通りのいわれは、その昔は道の両側にマンゴーの並木道があったことから来ていて、当時の写真を見ると牧歌的な道が伸びていて、交通渋滞で知られる現在とは異次元の世界を感じさせる。

 このマンゴー通りは小生がセブに住み始めた1990年代初頭はアップ・タウンの繁華街で、映画を観たり、日本食レストランもここにありわざわざここまで来たが、セブに相次いでショッピング・モールが開業して繁華街としての魅力は失った。

 そのマンゴー通りがジョーンズと交わる所に写真の公園があり当時は『フェンテ・サークル』と呼ばれていて、写真の中央分離帯に記された黄色の線の先に見えるのがそれになる。

 マンゴー通りはその右手に伸び、写真の先は州庁舎へ突き当り、写真を撮った側はダウン・タウンへ行くが、このサークルはいつの間にか『フェンテ・オスメニャ』の通り名になっていて、フェンテとはスペイン語の『泉』のことで、写真中央にある白い塔が泉の名残りである。

 名残りと書くように既に泉は噴出していないが、1990年代はこの回りでローラースケートが行われ、小生も何度か滑ったことがあり、昼間の熱を溜め込んだコンクリートの上を、靴を借りて滑ったが料金はいくらであったか覚えていないが、夜間になると結構滑る人が多く、セブの若者の社交場でもあった。

 このローラースケート場は戦前からあって、古い写真を見るとパンタロン姿の女性が滑っていて、当時は上流階級の遊び場であったことが分かるが、現在は理由は分からないがローラースケート場はなくなり、復活の兆しもない。

 仮に復活しても、現在のように娯楽の選択肢が広がっている時代では、アイススケート場がショッピング・モールにあるくらいだから商売としては難しいのかも知れない。

 このフェンテ・サークル、毎年12月になるとセブで一番高いクリスマス・ツリーを設置する場所として有名になっているが、わざわざ見に行くほどの物ではない。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 20:24
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この一枚2019年 セブ篇 その(4) ショッピング・モールのテナント

 ショッピング・モールとかショッピング・センター、あるいは単純にモールと呼ぶフィリピンの大規模商業施設で最大手は国内に70店舗以上を傘下にする『シューマート』だが、その頭文字を取って『SM』といわれている。

【人口爆発なのでいくら窓口を作っても足らなく能率も悪い】 

 SMの創業者は中国大陸福建省からフィリピンに移民し、会社名にシューが付くように靴屋から始めて一代で大財閥を築いた人物で、世界長者番付で毎回上位に入り、もちろんフィリピン一の大富豪となるが、昨年90いくつかで亡くなった。

 いくら金を持っていてもあの世には金は持って行けないと見るのは貧乏人の僻みかも知れないが、この手の金持ちは遺産相続でなるべく国に税金を払わないように対策はしっかりしていて、何人かいる子ども達上手に分散、分与された。

 フィリピンに住む中国系というのは人口の1%を超える程度で、タイの20%以上と比べると少ないが、金を設ける才能は抜群でフィリピン経済のあらゆる分野で支配している。

 それでいて、節税あるいは脱税で税金を払わないことでも有名で、前の大統領アキノの時、中国系財界人の集まりで『税金を納めてくれ』と苦情を述べられたくらいだから徹底している。

 さて、写真はあるモールへ行った時に見かけた案内板で、一番上の2Lと矢印がある方向には『入国管理局』、通称『入管』の出張所がある。

 入管と呼ばれる政府機関には小生もフィリピンに長年住んでいるため、非常に縁が深く、毎年明けには入管に出頭して在住している旨の確認作業を他の外国人に混じって並んでいる。

 入管も以前は埋め立て地に近い小さなビルで業務を行っていたが、狭くて非能率、しかも交通不便、車で行っても駐車に一苦労、業務もパンク状態となり、ようやくこのモール内に出張所を設けた。

 利用する方としては窓口が増えたことは歓迎でも、やっていることは同じで、少しは工夫したらどうかと思うものの文句をいっても始まらないが、この出張所は以前よりは透明性があり、入管業務を巡っての汚職行為は表面的にはないように見える。

 セブでヴィザ手続きで思い出したが、1990年代にヴィザの件で行った入国管理局は、セブ港を背景に堂々と構える戦前に建てられたクラシックなビルであり、内部も古色蒼然としていた。

 この建物はアロヨ政権時代に本人がセブ方面に来た時、政務と宿泊をする設備に模様替えし、マニラにある大統領府のマラカニアン宮殿に張り合って『南のマラカニアン』などと気取っていたが、アロヨの任期が終わり汚職で逮捕されてから元の入管の建物に戻ったようだ。

 写真のモールは、やはり一代で築き上げた中国系の所有で、その人物は果物のマンゴー加工で財を築き、小生もセブの土産としてその会社の『ドライ・マンゴー』を日本に持って行くくらいだからかなり有名である。

 今はこのモールやマクタン島にある割合大きな韓国系資本であったリゾート・ホテルを買収し観光業にも乗り出し、隣の島ボホールにも大規模なリゾート施設を造っているし、独立した建物がどちらの所有なのか分からないが、日本の東横インが営業をしている。

 それにしても果物の加工でそんなに儲かるものなのかと思うのは、小生を含めて富に縁のない人物であり、ボトルに水を詰めて売る商売で当てて、最近大きなホテルを開業した中国系もあり、そういった中国系の成功例は枚挙に暇がない。

 しかし、このモール、元マッチ工場跡の立地ゆえか、開業以来今一つパッとせず、空きが目立ちテナントの入れ替わりも激しく、たまに行ってみると今まで在った店がなくなっていることが多い。

 モールはアパート経営と同じでテナントが埋まらないと収入が減るから、その打開策として政府系の機関をテナントとして入れて、それ目当てにやって来る人がモール内に金を落とすと見たのかどうか知らないが、写真の看板のように5機関の出張所が現在進出した。

 最初に触れた入管にやって来るのは外国人が主になり、確かにモール内には外国人の姿を多く見るようになったが、元々行ってみようと思われる店のないモールだから、用が済んだらサッサと帰るのが多くてそれほど金を落ちてはいないのではないか。

 写真の3L方面最初の『PAG−IBIG』というのは社会保険関連の機関で、持ち家を増やすための基金となっていて、毎月掛け金を納めて融資をしてもらうが、これを担保に巷に多い金貸し会社が金を貸してくれる。

 次の『SSS』というのは『Social Security System』の略で、いわゆる年金を扱う機関になるが、会社勤めは毎月納められても貧困層を形成する人々にはこの制度は行き渡らず、また、受け取れる年金額もかなり低く、10年納めると資格を得る。

 貧乏国でもこのように社会保障制度があることは良いが、元々、フィリピンの親の老後は子どもに面倒を見てもらうのが当たり前で、そういった土壌ではなかなか毎月一定額を納める制度というのは難しく、加入率など低いのではないか。

 『NBI』というのは『National Investigation Bureau』の略で、直訳すれば『国家捜査局』になり、これはアメリカのFBIを真似た捜査機関で、広域犯罪、重大事件に対処している。

 捜査機関がどうしてモールなどに出張所を設けているかの理由だが、NBIでは『無犯罪証明書』を発行していて、この無犯罪証明書は会社などに就職する時に要求される書類なので、一般人が足を運ぶようになる。

 特に、毎年100万人以上が海外に出稼ぎするフィリピンでは、この無犯罪証明書が必須書類となり、いつも窓口は込み合っていて、そういえばかつてヴィザ申請の時にセブのNBI事務所に無犯罪証明書をもらいに行ったことがあって、朝早くから長蛇の列であったことにびっくりした覚えがある。

 この無犯罪証明書、小生が初めてフィリピンへ行く時に日本でヴィザを申請したが、その時無犯罪証明書が必要だといわれて、警視庁へ行って申請したことがあった。

 その時、指紋を取られたが、今思えば指紋という重要な個人情報をノコノコと出かけて提供するなど馬鹿の骨頂で、犯罪をしていないから証明書は大丈夫だという思いが強かったためと思うが、問題なく発行、受領した。

 最後の『LTO』というのは『Land Transporrtation Office』の略で『運輸局』。ここは運転免許証発行、更新、自動車関係の登録、税金などを扱う機関で、フィリピンも自動車やオートバイが爆発的に増えて、免許証を持つ者が急増し業務が追い付かない状態となっていて、いつ行っても人で溢れている。

 特に免許証業務などパンク状態で、申請してもカードの免許証を手にするまで半年くらいは普通で、その間どうしているかというと支払い済みの免許証交付申請書が免許証の代わりとなっている。

 

 免許証発行業務の不味さもそうだが、このLTOの仕事のいい加減さを物語るものに、ナンバープレートの遅れがあり、セブではここ数年正規のナンバープレートが発行されていない。

 遅れの理由はナンバープレートを作る民間会社との契約のもつれで、どうせ賄賂の額で揉めているのだろうともっぱらの噂だが、それにしてもナンバープレートが発行されていないのは由々しき問題だが、車を売る自動車会社も心得たもので自家製のナンバープレートを車に装着している。

 これで、登録番号と合えば問題なく、この手のプレートを付けているのは新車に近く、以前からのプレートを付けているのは年式が古いと、街を走っているとはっきり分かる

 

 最近ようやく業者との契約問題が解決して新しいナンバープレートが交付されているらしいが、それにしても何年もナンバープレートを発行できず、車を持つ方も私製のナンバープレートで済ましてしまうとは、さすがフィリピンと言わざるを得ない。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 18:08
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