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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(13) 6年前の『ヨランダ』台風 未だ建設中の復興住宅の驚く場所

 2019年9月9日に千葉県を襲った台風15号は2万戸近い家屋に被害を与えたが、その被害で目立つのは風によって屋根など家屋上部が飛ばされたことで、地域によっては応急修理のブルーシートの青色がかなりを占めた。

【写真−1 大自然の中に忽然と現れた建設中のヨランダ被災者住宅】

 千葉県は台風シーズンになれば台風の通り道になり、台風対策には備えているはずだが秒速57.5m、時速に直せば200キロを超す風の強さには行政の不手際もあって被害が拡大してしまった。

 関係者は想定外の風が吹いたための被害というが、自然に対して想定外というのは責任ある者の言い訳にしか過ぎない。

 台風通過後に問題になったのは、電線切断による停電で、最初はすぐに復旧すると発表したが、所によっては2週間以上も停電が続き、住民の生活に大きな負担をかけた。

 千葉県は東京電力の管轄だが、東電の見通しの甘さが2次被害をもたらしたもので、東電の体質は2011年の大震災の経験が活かされていないと多くの人は思ったのではないか。

 中には、電力の大切さを住民に浸み込ませ原発推進のために、意図して電気の復旧を遅くしたなどとの穿った見方もあって、原発推進の雄、関西電力の経営陣の贈収賄騒動を見ると成程と思うところもある。

 人間が生活するには第一に水、次に電気となるが、停電による断水は生活する上でかなり苦しく、昔、アフリカで生活した時に電気はなくても生活には支障を来さなかったが、水が長期間配給されない時があって、その期間中は村を離れざるを得なかった。

 台風は年中行事の様に発生し、同じような進路で日本を襲うが、最近は台風の発生海域がフィリピン海上ではなく、意外な海域で発生することが多くなった。

 これは地球温暖化による海面の温度が上がったためで、かつてはセブ島の上にあるサマール島東方海上が台風の発生海域であったが、今はサマール島の北方面で発生し、そのため、セブは以前よりも台風の影響が少なくなり、今年などはまだ台風は一度も上陸していない。

 しかし、油断は禁物で、台風で思い出すのは2013年11月に襲来し、フィリピン中部のレイテ島を中心に甚大な被害をもたらした台風『ヨランダ(台風30号)』で、この年は台風の当たり年で、年間30個を超えたのは1994年以来、最終的には31個の台風が発生した。

【写真−2 セブのような大都会で机上の計画を立てているからこうなる】

 ヨランダは『100年に1度』の猛烈な台風と表現され、フィリピンの死者行方不明者は7300人以上、倒壊など被害を受けた家屋は114万戸に上がり、国民の10%が被災した猛烈な台風であった。

 その時、小生はセブの自宅で台風通過を見守っていたが、強い雨の中を歩いている人もありそれほど台風の被害は大きくなく、いつも程度と思った。

 しかし、セブ島北部からレイテ島、サマール島では甚大な被害が発生したと刻々とニュースが入り、セブ島北部に現地入りした知人からも容易でない被害を受けているとの連絡があった。

 このヨランダに関してはやがてセブ島北部の町で被災住民のための『炊き出し』活動に繋がり、本HPやフィリピンの邦字紙にも報告を乗せているが、そこは割愛して2019年の現在を書くことにする。

 ヨランダの時は烈風に椰子の樹が軒並み吹き飛ばされ、被災地の樹々の枝や葉も丸裸になったが、6年経った今ではすっかり復活して緑に覆われ、亜熱帯植物の生命力の強さを感じ、被災した家屋もそのほとんどは元の様に復活している。

 ヨランダ被害は既に過去の物と思っていて、先日セブ島北部を車で走っていたら、写真−1の景色に出くわした。

 この地は平坦地の少ないセブ島でも平坦な場所が広がり、それを利用して『サトウキビ』栽培が盛んな所で、戦前から操業する大きな製糖工場もあり、ここでは日本軍の飛行機用燃料も作らされた。

 そのサトウキビ畑に現れたのは住宅で写真中央に見え、最初見た時はどこかの不動産屋が開発しているのかと思い、こんな不便な所に誰が住むのかと思ったが、人口爆発のフィリピンでは安い住宅の需要と供給は旺盛でそういうこともあるのかと感じた。

 この一帯は本当に何もなく、しかも近隣の町までも相当な距離があり、これで生活が出来るのかと思うが人が住み始めればそれなりに住宅地として機能するのだろうと思うが、いかんせん不便過ぎてどういう発想でこの住宅を造った意図が理解できなかった。

 ところが先日、通りがかりに写真を撮った時に写真−2の案内板が立っていてこの住宅が台風ヨランダの被災者用住宅であることが分かった。

 今頃、被災者住宅を建設していることにも驚くが、去年の6月に建設が始まり、今年の6月に終わるとあるが、どう見ても年内には終わりそうもなく、フィリピン流のその内できるプロジェクトなのであろう。

 それにしても、365戸という大量の被災者住宅を、こんな不便な所に造っているこの組織の考えていることは、被災者本位で造っているとは全く感じさせない。

【写真−3 2000人近くが住みどういう環境になるのか誰も分からない】

 各国からの義援金の予算があったからの消化プロジェクト、あるいは使える土地がここにあったからなどと建設業者を始めとする地元有力者などの利権の匂いがプンプンする。

 写真−3でも分かるように建設中の被災者住宅には幹線道路から1本の道がまっすぐ伸びているが、幹線道路といいながら車の通行量は少なく、しかも幹線道路沿いは家が所々にあるものの、集落というほどのものはない。

 そういう場所に何度も書くがどうして被災者住宅を造ったのか、また、6年も経って今頃被災者住宅を造ってどうなるのかと思うし、住宅難のフィリピンでは被災の字が抜けて、利に敏い連中が住み始め、中には又貸しするのではないかなどと想像するが、それにしてもこんな所に住むのかという思いが先に立つ。

 そういえばヨランダの炊き出しの時は、この建設地の右側にある集落に弁当を届けたことがあって、電柱がなぎ倒されていたのが印象的で、こういう場所に良く住めるなとその時は思った。

 今回の忽然と現れた被災者住宅、写真からも狭い棟割が密集していて、生活環境としては将来のスラムを思わせるが、有り余る大自然の中なら、それも我慢できる範囲になるのだろうか。

 それにしても、こういう被災者住宅が問題にならない、問題にしないフィリピンは、驚きよりもやはり何でもありの国だなと改めて認識した。

 


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 18:33
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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(12) 1972年9月21日 マルコスの戒厳令布告

 47年前というから既に半世紀近く前になるが、フィリピンでは今日9月21日、戒厳令法案にマルコスは署名をし全土に『戒厳令』を布告、独裁政治を強固にした。

【写真はマルコス王国一派の牙城となる北イロコス州庁舎】

 この戒厳令は1981年1月17日に停止されたが、マルコスは政変によって1986年2月25日、一族、取り巻きと共にハワイへ追い出されるまで独裁政治を続けた。

 

 マルコスは1917年9月11日生まれで、ハワイ逃亡4年を待たずして1989年9月28日、現地で死亡するが、逃亡以前から透析を受ける半病人状態で享年72であった。

 そのマルコスの遺体はしばらくハワイに置かれていたが、後に出身地のルソン島北イロコス州の町に冷凍保存されていたが、現在のドゥテルテ政権になって、遺体は英雄墓地に埋葬された。

 

 この遺体の英雄墓地埋葬については、歴代政権は認めなかったが、マルコス独裁時代に検事として任官したドゥテルテはマルコスに恩義があったためか、埋葬を認めた。

 

 マルコスの生涯だが、頭は良かったのか国立フィリピン大学法学部に学び、在学中の1938年に父親の政敵を射殺した容疑で逮捕されるが、事件を起こしたのは18歳の時であった。

 1939年に有罪判決を受けるが、その間司法試験を受けてトップで合格し、翌年には最高裁で無罪判決をを受けるが、フィリピンの司法試験でトップの成績で合格というのは将来が約束されていて、大統領や最高裁長官、政府の要職など数多の例がある。

 

戦時中は日本軍に対するゲリラの指揮者として名を挙げるが、同盟を組んだアメリカ側の資料にもなくて、実際はマルコス側の選挙に勝つためのでっち上げた経歴といわれている。

 戦後の1946年から1947年にかけて5代大統領ロハスの法律補佐官を務め、1949年、地元北イロコス州の下院選に出馬し32歳で当選するが、これは当時の最年少当選者でもあった。

 

 1954年、37歳の時にマルコスはイメルダと結婚するが、イメルダはレイテ島タクロバン市の名家一族に繋がる家の出だが、生家は貧しかった。

 しかし『タクロバンの薔薇』と呼ばれたように若い時はかなりの美貌で、ミス・コンテストに出て有力者を物色し、それにかかったのがマルコスといわれているが、マルコスはマルコスでミス・コンテスト優勝者をつまみ食いする人物として知られている。

 

 実際、マルコスが大統領になって大統領官邸のあるマラカニアン宮殿にコンテスト優勝者を招いてつまみ食いするので、イメルダは宮殿内では止めてくれという話が残っている。

 

 1959年には上院議員選に出て当選し、1965年になってマルコスは大統領選に名乗りを上げるが、属する自由党の公認を得られず反対党の国民党に移って出馬し、現職の9代大統領マカパガルを破って当選。

 日本でいえば自民党総裁が立憲民主党代表に移って当選する青天の霹靂のような出来事だが、フィリピンではあまりそういうことを考える者は少ないし、政治信条よりも実利優先の国柄が有利に働いたのであろう。

 

 当時の大統領任期は4年で、1969年に再選されたマルコスは独裁体制を固めるが、その前後から反マルコスの運動が起こり、共産党の軍事部門である新人民軍(NPA)やミンダナオ島を中心にしたイスラム系の武装闘争が激しくなる。

 

 当時の憲法では大統領は2期8年しかできなかったが、マルコスは任期切れ前に戒厳令を布いて超憲法体制を布いたのが実相で、反政府勢力への対抗手段として戒厳令を布いたというのは方便でしかなかった。

 

 マルコス独裁が強固になり、反対の多かった日本との『日比友好通商条約』を1973年に批准し、この一点を見て日本側ではマルコスが居たから今の日本とフィリピンの長い友好関係が築けたと評価する向きもあるが、マルコスが狙ったのは日本の巨額な戦後賠償で資金であった。

 

 条約批准によって日本の商社などが商機を求めてフィリピンに進出するが、既にマルコス一派は汚職にまみれていて、リベート政治が花盛りで、日本の大小の商社はどっぷり漬かりこんだ。

 戦後賠償を含めて日本は巨額なODAをフィリピンにつぎ込むが、マルコスはプロジェクトによってリベート額は何%とはっきり決めるので、当時の日本の商社員は仕事はやり易かったと述懐しているが、馬鹿も休み休みいえとはこのことである。

 マルコス一族とその取り巻きがいくら汚職で稼いだかは今もって不明だが、一説には兆円を超すといわれ、正に国を食い物にした連中とはこのことだが、不思議なことにイメルダを始め、一族取り巻き共に完全に復権しているから驚かされる。

 

 2016年に行われた正副大統領選では上院議員であったマルコスの長男が副大統領選に出馬し1415万票余を得るが、女性候補のロブレドが1441万票余を得て敗れる。

 開票後マルコス陣営は『不正があった』と最高裁まで持って行ったが、いつの間にかその話は消えて、父親が失脚した原因は1986年の繰り上げ大統領選の開票不正が暴露されたためであり、不正云々など笑止といわれた。

 

 妻のイメルダは90歳になっていまだ健在で、今年の選挙には出なかったが地盤というか領地の北イロコス州選出の下院議員を務めた。

 

 領地と書いたが北イロコス州はマルコス一族が牛耳っていて、知事は娘が勤めていて、その娘は今年の上院選に出て当選し、その知事と副知事の後釜もマルコス一族の人間で、あれほど石もて追われた時代があったのに地元では絶対権力者として君臨。

 領地に根差した中世的な政治状況がフィリピンの政治の特徴で、各地には名前を聞いただけで、有力政治一族と分かるのがゴロゴロしていて、政ではなく利権で政治が動いていて、こういった存在を放逐することは難しい。

 

 マルコスが復権したのは当時の状況を知らない、学ばない若い人が増えたためと指摘されているが、逆に言えば携帯もSNSもパソコンもなかった時代の人間の方が物事に正面を向いていたともいえる。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 18:00
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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(11) 1945年9月3日 ルソン島バギオにて

 昨日、9月3日(火曜日)は『日本降伏記念日』として、フィリピンでは『特別祝日』になっていた。

【写真は日本軍と民間人が敗走を続けたルソン島山岳部の様子】

 特別祝日というのは時の大統領が決めるもので、大統領の胸先三寸、つまり気分次第でどうにもなりしかも突然決まるから始末が悪い。

 ドゥテルテは2月にこの日を祝日にする署名をしたらしいが、なっていたと書いたように国民の間の周知は良くなく、普通、こういった祝日の場合学校は休みになるが公立学校でも登校し授業をしていたから休日にはならなかったようだ。

 日本の場合、国の祝日(祭日)と休日は一緒で混乱はないが、フィリピンは祝日と祭日と休日と3つに区分されていて、小生など未だ持って分かり難い。

 

 祝日と祭日と休日は急に決まるから大変なのは営業をする企業で、休日出勤の給与計算に混乱があり、そのため政府は急遽決めた休日に対して2倍、単なる祝日なので3割増しで良いとかいちいち通達を出す始末。

 さて標題の1945年9月3日とは、先の戦争中にフィリピンへ侵出していた日本軍がルソン島中部にあるバギオ市で降伏調印をした日で、8月15日に戦争は終わったと喧伝されるが、戦地ではそれがまちまちになっている。

 例えば、セブ島においては8月24日が降伏調印日で、フィリピン国内でも降伏はまちまちで、8月15日の敗戦放送後にも戦闘行為は続き、その間も日本軍兵士とフィリピンとの殺し合いは続いた。

 戦争は『宣戦布告』という国際法上の行為によって始まり、戦争終結も互いの公式文書への調印によって終了するが、9月3日を公式調印日として全ての戦闘行為は双方終了と見るのはあくまでも建前であって、残留日本兵によって戦闘行為は多かった。

 残留日本兵といえば1972年1月にグアム島で発見された横井庄一が知られ、彼の場合は敗戦後から28年間、グアムの山中で逃避行を続けたが、当時は大きなニュースになり、横井の最終階級は陸軍軍曹であった。

 これを凌ぐ事柄といえばグアムで発見された横井の2年後の1974年3月にフィリピン・ルバング島で投降した小野田寛郎元少尉で、小野田の場合はゲリラ戦を命じられた残置士官という立場で島に籠ったとされた。

 ルバング島というのはマニラ湾に入る手前に横たわる島で、小生もマニラ国際空港へ着陸する飛行機内から見たことがあってかなり大きい島で、面積は125平方キロある。

 マニラ湾に入る艦船に対して戦略上に重要な島で、そのために小野田以下を配置したのだが、敗戦後も小野田の任務から部下は引き摺られる形で島内で戦闘行為を続けた。


 小野田が出て来るまでに島内で殺傷された人員は30人以上といい、フィリピン側も警察や軍を送って掃討作戦を行い、そのため小野田の部下2名が射殺されていて、射殺された兵士の遺族は敗戦で投降をすれば失わないで良かったとの批判を行っている。
 

 こういった話で最も知られるのは敗戦の放送があった午後に、艦上爆撃機『彗星』11機を指揮して沖縄沖の米軍艦船に向けて特攻攻撃をした、宇垣纏海軍元中将が知られる。

 彗星は2人乗りの航空機だが宇垣はそれに無理に同乗し、この攻撃ではエンジン不調で3機が途中で引き返した3機5人を除いて宇垣以下17人が戦死するが、この戦死は敗戦後であるために正式には認められていない。

 また、戦死した遺族にしてみれば無駄な攻撃を指揮した宇垣にはかなり辛辣な批判を行っているが、時間が経つとあれは仕方がなかったと諦める遺族も出て来て批判は弱まっている。

 

 ただ、この宇垣の戦闘行為は部下を私兵として使っていた日本軍隊の根本的な病弊を見るようで、こういった無謀な指揮官のために殺された兵士は無数に上がっているであろう。

 さて、『日本降伏記念日』のこの名称の多くは『戦勝記念日』として勝利国は作るが、日本贔屓といわれるドゥテルテがわざわざ敗戦国の日本に当て付けるような名称にしたのは良く分からない。

 

 1945年9月3日、ルソン島中部にあるバギオ市で調印式が行われ、日本側を代表して調印したのは山下奉文陸軍大将で、山下は東条英機に疎まれて満州の方面軍司令官に飛ばされているが、風雲急を告げるフィリピンの指揮を委ねられたのは1944年10月のレイテ島に連合軍が上陸する直前であった。

 山下がマニラの飛行場に降り立った時の第一声が『レイテ島ってどこだ』といった言葉が知られるが開戦時にマレイ半島を南下しシンガポールを陥落させ『マレイの虎』として名を残す人物にしてはお粗末でこれは後世の作り話のようだ。

 フィリピンを統括するのは第14軍であったが、山下が着任する前に編成替えして上級組織の第14方面軍となり麾下に35軍と41軍を持つが、軍というのはその下に師団を持ち、その師団の一つが第1師団で、この師団長がセブで降伏調印をした片岡董中将になる。

 山下は降伏調印後に捕虜となり、その後戦犯指定されマニラ裁判で死刑判決を受け、1946年2月23日、首都圏ロスバニョス市にあるニュービリビッド刑務所で絞首刑に処せられた。

 山下は軍人としては不名誉な絞首刑になったが、処刑はマンゴーの樹に吊るされたと伝わるが、そのマンゴーの樹は現在も健在で石碑などが建てられているらしいが、処刑当時に人間を吊れるほどのマンゴーだとすれば、その寿命から考えて現存しているのはおかしく感じる。

 降伏調印をしたバギオ市は避暑地として開発された場所で、そこに至る道路は100年以上前に日本人移民が多大な犠牲を払って開通させたもので、フィリピンの日本人移民史はここから始まる。

 バギオには何度も訪れていて最近では3年近く前になるが、自動車の排気ガスが谷間に滞留して山の清浄な空気は失われていて、既に山の避暑地としての価値はなくなっていた。

 山下以下の日本軍と民間人は、バギオ奥地の山間部に連合軍に追われて敗走を続けるが、先行きの見えない敗走で餓死、病死したのは兵士、民間人を問わず累々であった。

 ある調べによると先の戦争で戦闘行為ではなく、餓死した兵士は日本軍戦死者の3分の1以上にも上がるというから酷い戦争であったことは確かで、どこに『聖戦』といえるのか。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 21:22
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