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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(52) 2019年最後に読んだ 半藤一利の『ノモンハンの夏』

 ノモンハンというのは、広漠たる大草原の広がる旧満州の西北部、当時のソヴィエトの衛星国であったモンゴルと国境を接する辺りにあり、何もない所なのにこういう地点に限って、軍隊は国境を巡って紛争を起こすことが多い。

 

【この本が書かれてやがて四半世紀になるが日本の軍国体質は進んだ】

 

 本書は『ノモンハン事件』と呼ばれる軍事史に残る軍事衝突を多くの資料を基に克明に描いたもので、数多あるノモンハン事件関連書物の中で秀逸であることは間違いない。

 筆者の半藤一利は菊池寛が創設した文芸春秋社の副社長まで務めた編集者で、先の戦争を強力に推進した社風から、リベラルな基調で書き綴れるこういう人物が生まれたことにも驚かされる。

 半藤は1930(昭和5)年生まれで、現在89歳。1945年3月の東京大空襲の時は旧制中学生で、川に逃れて九死に一生を得る経験をしていて、もう数年敗戦が延びていたら兵役に駆り出されていた戦中派である。

 そのためか、昭和史、近代の戦争についての著述は多く、特に岡本喜八監督によって映画化された『日本の一番長い日』の覆面作家であったことは知られる。

 ノモンハン事件は1939(昭和14)年5月から9月にかけて日本陸軍とソヴィエト陸軍がノモンハンを流れる川を挟んで2度に渡って激突した紛争で、日本軍は徹底的に打ちのめされた。

 この衝突の前面に出て戦ったのは日本が作った傀儡国家満州を守る関東軍で、その兵力数は80万人近い大軍事集団になり、当時の日本陸軍は対ソ戦を主眼としていた。

 この関東軍は中央の統制の効かない軍事集団として悪名高く、『張作霖爆殺事件』『柳条湖事件』など謀略事件を起こし、満州国を作るがこの成功体験が同軍を増長させた。

 この問題の多かった関東軍参謀には東条英機を始めとして、先の戦争を導いた錚々たる人物名が多くあり、関東軍の実務経験が軍官僚として中央で出世する一つと言っても過言ではない。

 半藤の著書では日本陸軍の最高中枢である『陸軍参謀本部』と『関東軍参謀本部』の対立を細かく描写していて、戦いの成否は指導する人間の質に寄って帰趨が決まるとまで言い切っている。

 特に参謀と呼ばれる日本の高級将校の在り方に批判は多く、東京三宅坂にあった参謀本部の連中を『秀才参謀達』と、本当は頭は悪いのに頭が良いと自惚れた連中と皮肉交じりに書いている。

 参謀というのはどこの国の軍隊にもあり軍の作戦、用兵、編成を文字通り立案して実施させる軍の頭脳と言うべき存在だが、半藤は日本の参謀には点が辛い。

 参謀が秀才集団と言われる所以は、参謀は陸軍幼年学校、士官学校を出て、陸軍大学校を経た軍事環境の中で純粋培養されていて、いわば軍の事しか知らない世間知らずの集団で、こういう集団は独善的になり易く、先の戦争はこの偏った人物達に指導されために敗戦に至るのは必然と分析している。

 士官学校を出ると少尉任官から始まるが、その中で陸大に進めるのは限られていてだいたい大尉クラスで選抜試験を受けて陸大に入っている。

 軍隊は成績順に出世が決められていて、士官学校や陸大の卒業時の席次が終生付いて回り、卒業成績が上位数人は軍刀組と言って、出世が約束させられていて、これは海軍も同じである。

 つまり成績が良ければその人間の資質に関わりなく戦争指導者になれる訳で、このような人物を育てる構造的な欠陥が、先の戦争中において日本の軍隊の悲劇を数多く生んだ要因と見ている。

 その典型例がこの著作の中で主人公の様に描かれている『辻政信』で、筆者は生前の辻が国会議員の時に会ったことがあって、その時の辻の容貌魁偉、言説が印象深く残っていると記している。

 先の戦争を記す時、大本営参謀辻政信(最終階級は大佐)はマイナス面で多く描かれているが、本書を読むと辻の関東軍参謀時代に早くもその悪魔的な性格が出ていることが喝破されている。

 辻はノモンハンを始め、日本の負け戦に因縁の様に絡んでいて、唯一勝利に導いた『マレイ作戦』にしても、シンガポールの華人虐殺事件を引き起こす偽命令を出した参謀として知られる。

 マレイ作戦の司令官は山下奉文であったが山下は辻のことを『考え方小男、注意すべし』とわざわざ書き残しているから、小賢しい人物であったことは確かなようだ。

 フィリピンにも初期に派遣され、米比軍捕虜を炎天下に歩かせた『バタアン死の行進』で捕虜殺害を命じたとされ、辻にとっては敵方の捕虜など虫けら同然としか思わなかったのであろう。

 その後ガダルカナル、インパールとどういう訳か日本軍がボロ負けした問題作戦の参謀として加わり、敗戦時にはタイ・バンコクの寺に逃げ込んで戦犯逮捕を免れている。

 戦犯容疑が溶けかかる時に密かに日本へ帰国し、その時の体験を書いたのが『潜行三千里』で、これは戦後のベストセラーとして売れたし、小生も復刻版を読んでいる。

 その後、辻は出身地の石川県で衆議院選に立候補し当選、2期務めるがやがて辞職し参議院選全国区に出てこちらも上位当選するから、あれほど軍に苦しまされた民心も実は反省がなかった証拠か。

 戦後の復興期には辻のような大言壮語の人物が格好良く見えたのかも知れないが、そういう民心を掴んで政界に転身した辻は参謀時代の経験が役立っているのであろう。

 参議院議員任期中の1961(昭和36)年にタイを経由してラオス・ヴィエンチャンに入り、そこからラオス北部を目指したまでは確認されているが、その後行方不明になった。

 現職の国会議員が行方不明とあって当時はかなり話題になったが、今では辻がラオスで行方不明という事件も時間と共に忘れ去られ、今ではその後を辿るのも困難になっている。

 しかし、一つのミステリーとして調べるのは面白く、小生もラオス・ヴィエンチャンに滞在中には辻がヴィエンチャンで泊まったホテルや、北部を目指した国道のその地点に立ったりし、文献も調べたが本当のことは今も不明である。

 有力な情報としては、辻はラオスの幹線道路13号線を北上し、観光地で知られるヴァンビエン経由で北部山岳地帯にあるジャール平原に入り、その地を支配する共産軍に捕まってスパイとしてその地で射殺されたというのがある。

 辻はヴェトナム戦争中の北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンに陸路で会いに行って秘密交渉をしようとしたとか色々な説が流れるが、どう見ても無謀で、参謀時代の唯我独尊が出たための失踪ではないかと思われる。

 こういった唯我独尊の高級参謀に指導させられたのが先の戦争で『将校商売、下士官道楽、身体を張るのは兵隊』と軍隊内でざれ歌があったのも納得させられる。

 ノモンハン事件では日本軍はソヴィエト軍に圧倒されたが、軍事的に見ると戦った部隊の死傷損耗率という数字があって、日本軍主力の第23師団では実に76%に達した。

 

 日本は全滅と言わずに『玉砕』という言葉を使っていたが、例えば太平洋戦争中最も悲惨な戦闘と言われる『ガダルカナル戦』でも、損耗率は34%程度というからその倍以上の犠牲を出したノモンハンの戦いはいかに熾烈であったかが分かる。

 

 ノモンハン事件はその後の日本軍の戦い方の体質、方向を予兆させる戦いで、兵站無視、合理的判断無視の精神主義が蔓延し、敗戦への道を転げ落ちて行くが、遣り切れないのは無能な戦争指導者によってむざむざと死に追いやられた下級兵士であった。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:21
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(51) 叔父の戦死した場所と時間が分かった−その2

【その1から続く】

 

 楢葉町から常磐線でいわき駅に戻り、次の目的地福島県庁へ向かうが、福島県は浜通りにあるいわき市と中通りにある福島市へ行く場合、交通機関は非常に不便で、唯一いわき駅と福島市を結ぶ高速バスが運行している。

【写真−1 コストの面で高速バスの時代か】

 この高速バス、いわき駅からは午前4本、午後1本の1日5本しか運行していなくて、本日中に県庁へ行くには11時45分発、福島市着13時48分に乗らなければならない。

 幸い、楢葉町での戸籍謄本申請、受理も早かったし、町にある神社境内に叔父の名前の刻まれた戦没者の石碑確認を終え、電車の時間も上手く繋がり、11時45分発高速バスに乗車することが出来た。

 いわき市は2011年の震災被災者支援活動最後の地域で、いわき市外れにあった川縁のキャンプ場から市内の被災者用仮設住宅を回るが、あれから8年経ってたくさんあった楢葉町避難住民の住んだ仮設住宅と住んでいた住民はどうなったのであろうか。

 原発爆発直後とあって当時、福島県内は放射能除染事業が盛んで、いわき駅前で除染作業をしているのを目撃したが、高圧ホースの水で屋根の上を吹き飛ばしていて、汚染を拡散しているだけではないかと驚いた。

 そのいわき駅前、再開発がなされ駅前広場は2階建てになり、上階は広場、エレベーターやエスカレーターが設置され、階下はタクシーやバスの発着所になりその変わりようには驚いた。

 バスの待合所で待っている間に、高速バスが東京方面に何本も出ていて、この方面は鉄道の常磐線利用は不便でもバスなら高速道経由で思ったよりも早く行けることが分かる。

 そうして乗り込んだ福島市行きの高速バス、乗客は10人足らずであったが、いわき市内から写真−1の磐越自動車に入って、渋滞もなく快調に走り東北自動車道に軽々と乗り入れる。

 磐越自動車道沿道の景色は秋が深まって木々の紅葉が常緑樹の杉の木と対比を見せて目に優しく、この典型的な日本の秋は訪日する外国人観光客に受ける風景だなと改めて納得。

 

【写真−2 国は汚染土の除染というがただ移動しただけで糊塗している】


 そういった優雅な思いに浸っていると、対向車線に大型ダンプカーが隊列を組んで次々と走り去って行き、その数も異常に多い。

 

 ダンプカーの車体に除染した土を運んでいることが書かれていて、これは福島で放射能汚染し除染した土を定められた置き場に運んでいるのだなと分かったが、ここで廃車にされたトラックがフィリピンなどに流れて来るのであろうか。

 放射能汚染された土の除染作業は8年経っても延々と続いていることを物語るが、こんなことは中央、マスコミはおろか国民も忘れているのではないかと思うと、空恐ろしい光景であった。

 

 その汚染土運搬を裏付けた看板がトイレ休憩で寄った三春パーキングエリアにあり、写真−2がその説明であるが、そういえば数年前に三春町の滝桜見物へ行った時に、町内道路で『除染中』の看板を見たのを思い出した。

 東北道に入り左手に頂に雪を乗せた形の良い山を見え出すと二本松で、この山は高村光太郎『智恵子抄』で謳われた安達太良山で、まだ雪は少なくそうしている内に福島市街地に入る。

 

【写真−3 官庁というのはどこでも同じ雰囲気】

 

 風の強い中、福島県庁に近い停留所で降り、写真−3の庁舎の建ち並ぶ一角に来るが、『兵籍簿』業務を扱っているのは社会福祉課で社会福祉課は写真の正面の建物内にある。

 

 直接、社会福祉課へ行くがどこでどう聞いたら分からなかったが、たまたま席を立った人に用向きを聞かれて『兵籍簿』を調べに来たと伝えると、他の階で扱っていると言わたものの、係員に連絡を取るのでここでしばし待ってくれと言われる。

 

 ザックを降ろしてしばし待つと係員がやって来て、事情を話すと了解してくれて調べるので他の階の待合所で待っていてくれとのこだが、本来、こういった用向きはアポイントを取るものだが、当方が海外から来たということで配慮が働いたようだ。

 そうして待つことしばし、父親と戦死した叔父の戦時中の記録のコピーを係員の方は持って来て説明してくれ、改めて所定の申請用紙に記入し受領し、コピーの説明を受ける。

 

【写真−4 これから新たな調べが始まる】

 

 写真−4のコピーは叔父の戦死報告書で、時刻と場所が記載されていて、ここで初めて叔父の戦死した状況が分かり、父親の軍隊記録も初めて分かった。

 

 それによると叔父は昭和20(1945)年7月31日午前9時、ルソン島バギオ北方74キロ地点で胸部に銃弾を受けて死亡。それを確認した上官の名前も記載されている。

 

 また、叔父が大陸からフィリピン戦線に送られて上陸した日と場所、その後の転戦した記録なども記載されていて資料として一級であるが、記載者の字の癖とコピーのためもあって読み難く地名などは解読するのが難しい。

 

 この報告書が真実かどうか今となっては確認のしようはないが、ルソン島中部山岳地帯を転戦した模様が生々しく記載され、先年ルソン島の山岳地帯を旅行した時に、あの辺りで戦っていたのかと改めて思い出した。

 

 この戦線では戦闘よりも餓死、病死が非常に多く、叔父もそうだったのではと想像していたが、いわゆる名誉の戦死と分かるが、記録上は戦闘で戦死としている場合も多いと言う。

 それにしても敗戦2週間前の戦闘で胸を撃ち抜かれて戦死とはあまりにも可哀想、運がなかったと思えて、その無念さに涙が溢れそうになった。

 係員の方にこれ以上の記録はないことを確認して県庁を去るが、最後まで適切に対応してくれた係員に感謝し、こういった訪問者、問合せはどのくらいあるものかと聞くと年に150件程度あると言う。

 

 戦後72年経ってもまだまだこのように記録を調査に来る人が多いことも驚くが、これも紙の記録としてきっちり保管されているから出来ることで、安倍自民党が公文書をご都合で簡単に廃棄する時代にしてしまって、こういった作業も難しくなるのではないか。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:22
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(50) 叔父の戦死した場所と時間が分かった−その1 

 日本とアメリカが戦った戦争が終わってから78年も経つと、この戦争についての関連記事など日本のマスコミ報道から全く消えていて、12月8日の『真珠湾攻撃』も話題にならず、芸能人の薬物関与で逮捕、起訴された事件の方が関心は高いというから日本はおかしい。

【写真−1 この駅のある楢葉町は福島原発爆発時は風下であった】

 本欄を借りて以前から小生の父の弟、即ち叔父は敗戦2週間前にフィリピンで戦死したことを書いているが、11月に日本へ行った機会にその戦死の様子を公文書によって確認することが出来た。

 その公文書は日本の旧陸軍と旧海軍軍人であった者に作成されている『兵籍簿』というもので、陸軍は徴兵検査を受け徴集された都道府県、海軍は厚生労働省に原簿が保管されている。

 

 このため父の戸籍の置いてあった福島県で申請、取得するようになるが、その前に小生の戸籍のある千住で戸籍謄本を取り、また小生が父の息子であり、叔父が父の弟であることを証明しなければならず、それぞれの戸籍のある自治体で謄本を申請、取得する必要がある。

 戸籍謄本は日本に住んでいれば直接取れるし、当該自治体から郵送してもらうことも出来るが、郵送は国内だけの措置で海外からは不可能な状態になっていて、他の人に頼むか自分で取りに行くしか手はない。

 11月に『ジャパンレイルパス』を使って、日本の新幹線を一週間で全部乗る旅行をしたが、その最終日に島根県松江から特急、新幹線を利用して東京駅を経由して常磐線の特急で福島県いわき駅まで行くが、ここまでジャパンレイルパスのおかげで鉄道運賃は払っていない。

 いわき市で一泊して常磐線で向かったのは写真−1の『竜田駅』で、いわき駅から乗った電車は7時49分発の朝の通学、通勤時間帯もあって立っている人もいたが、その次の電車は9時22分発だから、典型的な地方路線。

 

 この常磐線、2011年の東京電力の福島原発爆発による放射能汚染によって、沿線の町が汚染され未だ全線は開通していないし、この竜田駅のある楢葉町も全町民避難措置が取られ、町民はいわき市や会津美里町などの仮設住宅に避難した。

 

 ここでは詳しく書かないが、2011年8月から11月にかけて震災被災者支援で東北を回った時に、楢葉町民が避難したいわき市と会津美里町の避難住宅を訪れたが、あの時会った人々のその後はどうなったのであろうか。

 

 楢葉町は爆発事故を起こした原発から20キロの距離にあり、避難解除されたのは2015年9月で役場機能や町民が町に戻るが、避難前は人口1万1千人を超えていたのに現在の住民基本台帳では6800人余。

 

 しかも、町発表の居住率となると60%を切って3800人余となり、また爆発原発の除染や解体などで相当数の労働者が住み住民登録をしているだろうから、旧来の町民は町発表の数字からはかなり割り込むのではないか。

 

 特に0歳から19歳までの若者は300人程度しかいなくて、過疎化の進む地域とは言え、放射能で汚染された故郷では子どもを育てたくないという気持ちを物語っているようだ。

 

 写真−1の竜田駅、子どもの頃の夏休みにこの駅に降りて親戚の家に歩いて行ったり、踏切を越えて海へ泳ぎに行った記憶も微かにあるが、駅の位置は変わっていないだろうが佇まいなど全く覚えていない。

 

 この駅から楢葉町役場まで歩いて20分くらいと聞くが、ザックを背負った身には遠いので駅前に停まっているタクシーを利用するが、こういった地域では電話を掛けてタクシーを呼ぶのが普通のようだ。

 

【写真−2 それにしても町の中では人の姿を見なかった】

 

 写真−2は楢葉町役場正面になるが、タクシーの運転手に聞いたらこの役場の位置は昔と同じと言い、建物や裏の方にもかなり立派な町の施設があって『原発マネー』が近隣自治体に恩恵を与えていることが分かる。

 

 恐らくここには二度と来れないであろうから、戸籍担当者に父方の戸籍全部を請求して受け取り支払った金額は7000円を超していた。

 

 受け取った戸籍を見ると、一番古い人物は文久生まれとなっていて、これは明治になって戸籍制度が改めて作られ記載されたのだが、その後の記載された人物も聞いたことのない人物名ばかりであった。

 

 さて、肝心の叔父の戸籍だが、叔父の生年月日は大正5(1916)年10月10日とあり、戦死した昭和20(1945)年7月31日は29歳であったことが分かり、小生が後年聞いた叔父への母の『可哀想だったね』と言った意味は独身であったためかと理解した。

 

 いわき駅へ戻る竜田駅発の電車までには時間があるので、役場で戦没者の彫られた石碑のことを聞いて行くことにしてタクシーを呼ぶが、公衆電話が役場内になくて往生していると、役場を訪れていた恐らく原発関係の作業員と思うが携帯電話を貸してくれてタクシーを呼ぶことができた。

 

 そうして呼んだタクシー、事情を話して神社に行ってもらうが、かつて常磐自動車道が開通する前に東京から車で父や兄と一緒に神社を訪れ、叔父の名前が彫られた戦没者の石碑を見ていて、その記憶を頼りに探したが見つからない。
 

【写真−3 放射能汚染で立ち入ることは永遠に駄目かと思っていた】


 町内の神社を回ってもらったが、どうも記憶の中と一致せず、乗る電車の時間は迫って焦ったが、かつての村ごとに戦没者慰霊碑はあると、運転手の言葉をヒントに最初に行った神社に戻って丹念に境内を調べたらその石碑を発見した。

 

 写真−3がその神社境内で社殿も新しく造られ名称は『龍田神社』といい、昔でいえば村の鎮守様になり、常磐線の線路際にあって駅からも近いが、前回行った時の記憶には結びつかず、奥まで入らなかったのが失敗であったが、記憶というのは当てにならない証左でもあった。

 

 写真の真ん中近く左端にあるのは『忠魂碑』で、その右側に並ぶ四つの石碑に日清、日露戦争以来の村出身者の戦没者名が階級と共に彫られていて、叔父の名前は忠魂碑から右側三番目の石碑に彫られていた。

 

 石碑に彫られた叔父の名前の上には准尉とあり、これは士官学校を出ない軍人の中の下士官としてはほぼ最高の階級で、叔父は召集されて軍隊生活を続けてそれなりに優秀な人物であったことが分かる。

 

 ただし、これは後に叔父の戦死時の階級が『軍曹』であったことから、准尉になったのは戦死して2階級特進した結果であるが、それでも兵を率いて下士官として戦場を駆け巡ったことが分かる。

 こうして町内の神社をタクシーを駆って巡ったが、その料金は5000円を越すものの運転手も心当たりを電話で問い合わせてくれるなどしてくれて、短い滞在であったが良かった。

 

 このように急いだ滞在になったのは竜田駅発10時12分に乗っていわき駅に戻り、いわき駅より福島駅行きの高速バスに乗り換える必要があり、その高速バスの発車時間が11時45分で、これを逃すと今日中には福島市にある県庁へ行けない。

 

 いわき駅行きの電車はガラガラであったが、途中『Jヴィレッジ』駅というサッカーの駅を通り過ぎるが、これも原発マネーが造った施設になるが、最近この施設内で通常の1000倍を超す放射線量が観測された。

 

 放射能汚染された土地の表面土を剥ぎ取る事業が『除染』事業になり、兆円という莫大な税金が投じられているが広大な大地を元に戻すのは難しく、Jヴィレッジのように抜けている所は無数にあるだろうし、剥ぎ取った汚染土の保管、溜まる一方の汚染水など何も解決に向かっていず、原発事業の非科学性というのは明らか。【続く】

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:16
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