- マニラ逍遥 2018年 その(10) エスコルタ通り点描−3 ファースト・ユナイテッド・ビル内のスペースには
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2018.07.28 Saturday
1928年に竣工した6階建ての『ファースト・ユナイテッド・ビル』は、マルコス時代の政商で、エドサ政変でアメリカに逃げたのにいつの間にか復権した人物が所有する銀行の物と前回書いたが、その1階に写真−1のようなスペースがある。
【写真−1 もったいない使い方】
このスペースでは『サタデー・マーケット』と名付けて、毎週土曜日にフリー・マーケットを開催しているが、写真のように小さく小間割りして常設の店が並び、普通の日でもいくつか店は開いている。
ここには首都圏の意識の高いアーティストなどが出店していて、主に小物を扱っているが独りよがりの感じがしないでもなく、日曜日に関わらず閑散としていた。
【写真−2 既成のプラスティックのざるなどで作っている】
このスペースはかつてここで営業していたデパート跡で、剥き出しの天井が見え、写真−2は奥の方に飾ってあったオブジェで、コンクリート剥き出しの中で、躍動感を感じる。
この写真で分かるようにこのビルは上部階へ抜ける吹き抜けが造られ、当時としてはかなり進んだデザインであり、梁や柱の造りもかなりしっかりした構造で、竣工後100年近く経ってもビクともしない様子が分かる。
今出来のビルは長く持たせる考えなど無い使い捨てで、半世紀も持てば良い方で次々と建て替えられしまい、かつて丹下健三設計の高層の赤坂プリンス・ホテルが簡単に壊され、建て替えられたなど悪しき例がある。
【写真−3 この時間帯に客は我々と1人のみ】
こういうスペースはもう少し活用した方が良いと思うが、その中に喫茶店があり、写真−3はその店内の様子で、店内には面白い椅子が置かれて雰囲気としては悪くはないが、頼んだコーヒーはあまり美味くない。
フィリピンでは機械でドリップをするのが主流だが、豆の鮮度や状態などお構いなしで、このやり方がコーヒーを不味くしている。
また、コーヒーを淹れる店員が機械的にコーヒーを淹れているだけで、当人が自分の淹れたコーヒーを飲んだことがないのではと思わせ、自分で味見をしていなければ美味い物は出せない。
- マニラ逍遥 2018年 その(9) エスコルタ通り点描−2 1928年建築のファースト・ユナイテッド・ビル
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2018.07.19 Thursday
今でこそ、フィリピンでは40階から50階ある高層ビルは珍しくないが、1928年に竣工した6階建ての『ファースト・ユナイテッド・ビル』は、当時では一番高いビルであった。
【写真−1 かつての栄光あった通りも今は寂れている】
名称も月並みな今の『ファースト・ユナイテッド=First United』ではなく、最初は『ペレス・サマニージョ・ビル=Perez−Samanillo』となっていた。
ペレス名で分かるようにこれはこのビルを造ったオーナーの名前になり、ペレスはスペイン系の実業家でマニラにてホテルを経営し、このホテルはフィリピンの偉人ホセ・リサールがマニラの常宿にしていたという。
写真−1はエスコルタ通りに雨の降っている最中だが、ファースト・ユナイテッド・ビルは左側の奥の赤く縁取られた上階に五角形の窓を持つ建物で、通りの先遠くにサンタ・クルス教会の屋根が見える。
このビルの造られた当時はオフィスの他に居住区画もあり、現代に見られるオフィスと高級コンドミニアムの複合した造りになっていて、時代を先駆けたような建物になり、スペイン領事館もあったというから、マニラで最高のビルであったようだ。
【写真−2 窓から突き出ているエアコンが調和を崩している】
写真−2は同ビルのエスコルタ通りに面する角を見上げていて、1階に青い看板に白抜きの『UCPB』とあるのはフィリピンの大手銀行の一つの『United Coconut Planters Bank』の略である。
この銀行、元々はフィリピンの主要農産物である『ココナッツ』を栽培する農家向けに設立された政府系の銀行で、1963年の設立時には『First United Bank』と名乗っていたから、このビルの現在名からこの銀行所有のようだ。
銀行を設立したのは独裁者マルコスの取り巻きで政商として知られる『コハンコ』で、この銀行は全国の農民から巨額の金を集め、マルコスの裏金作りに設立されたとされ、コハンコは銀行資金を流用して株などに投資して莫大な利益を得ていた。
これが、後年アキノ(母=コハンコとはいとこ同士)政権になって、この流用が追及され裁判にもなったが、確か最終判決ではコハンコは罪を逃れて、大統領選にも立候補するまで復権したから、フィリピンの政財界は魑魅魍魎の巣といって憚らない。
【写真−3 入口の向こうには天井の高いロビーが伸びる】
写真−3は同ビルのエスコルタ通りに面した入り口で、入り口の全面には鉄製の柵が覆っていて、この鉄製の柵が竣工当時のものかどうか分からないが、曲線を上手にデザインして造られている。
同ビルの戦後すぐの1945年に撮られた写真を見ると、内部から出火し窓枠などが焼け爛れ、黒く染まった様子が写っていて、このビルも戦火を受けていたのが分かる。
これは他のビルにも見られ、エスコルタ通りのビルは1945年2月の10万人のマニラ市民が亡くなったといわれる、瀕死の日本軍と米比連合軍が繰り広げた『マニラ市街戦』の交戦地でもあったようだ。
写真の入り口右側から右の角にかけての場所にはかつてデパートがあって、かなり人を集めて賑わったようだが、今はそのデパートはなくなり、長らく空き家状態が続いたものの、最近このスペースを利用してフリー・マーケットの様なイヴェントが行われている。
- マニラ逍遥 2018年 その(8) エスコルタ通り点描−1 1938年建築のカルボ・ビル
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2018.07.13 Friday
エスコルタ通りはその(7)に書いたジョーンズ橋を渡って右に入る地点にある写真−1の道路標識から、サンタ・クルス教会に至る短い通りだが、戦前はビジネス街として栄え、当時の歴史的建造物が多く残っている。
【写真−1 駐車する車が道を塞いでこれだけ見ればただのフィリピンの通り】
前回は1930年代に竣工、元映画館の『キャピトル』の取り壊し直前の姿を書いたが、写真−1は遠方右側にその取り壊し中のキャピトルが写り、手前左側にピンク色の『カルボ・ビル』が写る。
カルボ・ビルの竣工年は1938年で、当時の写真を見ると現在の様なピンク色に塗られていなくて、窓の様子もずいぶん改造され、現在は1階部分に中華レストランや全国展開のドラッグ・ストアが入っている。
この中華レストランはビルが出来た当時から開業しているのが古い写真で分かるが、その頃の店の外観は、洋風レストランのように見えるので、今の様な海鮮を売り物にする中華レストランであったかどうかは分からない。なお、当時の店構えは通りに沿って開放的に作られていたが、今は壁や窓で閉じられている。
このレストランは川の眺望を売り物にしている有名店で、カルボ・ビルの裏側はパシグ川に面し、エスコルタ通りから川までビルの敷地はあり、そのフロアーを占める大きなレストランだが、小雨の降る中かなり客が入っていた。
【写真−2 上階の窓から付き出すクーラーがデザインを壊す】
写真−2はカルボ・ビル角の切られた部分で、かつてはここに正面玄関があって上階へ行くようになっていたようだ。古い写真と窓の様子を比較して分かったが、竣工当時は4階でその後その上に建て増しされ5階になっている。
そうしてビルは長い年月の間にかなり改造されているが、それでも3階部分の軒下にある飾りは竣工当時の状態で残っているようで、しっかり観察すれば面白いが望遠レンズでないと捕えられない。
このビルにはかつてラジオ局が入っていたこともあり、ビルのオーナーが三代に渡って収集した古い時代の資料や品物を展示したミュージアムが設けられていて、見学ができる。しかし、事前予約が必要らしく今回は見学は出来なかった。
【写真−3 それなりにマニラの名所になっているからもう少しマシなのが欲しい】
写真−3はエスコルタ通りの塀に掲げてあったエスコルタとチャイナ・タウンに建つビルの案内で、これには42棟のビルが載っていて、その中に入っている銀行やレストランなどが下部に書かれ、エスコルタを目指して来る者には役立つ。もう少し気の利いた物にならないかと思うし、また歴史的建造物だけの案内ではなく、近年建てられたコンドミニアムなども入っていて、それでも、これを見ると、戦前に竣工した歴史的な建造物がたくさんあるのが分かる。
しかし、多くは再開発で先の映画館キャピトルのように取り壊し中あるいはかつてあった、また荒廃の進んでいる建物が多い。戦前に建てられたのならば、既に築80年から90年は経過していて、コンクリート造りとはいえ寿命もある。
近年古い建物が見直されて、戦前に建てられ戦火でダメージを受けた建物を修復している例もあるが、エスコルタのように元は一等地で、交通の便も悪くないために再開発の波には抗えない時代で多くの建物は風前の灯といった感じが強い。