- 私の捨てられないTシャツ その−(4) 中米ホンジュラス コパン遺跡のTシャツ
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2018.05.24 Thursday
2006年から2008年までの2年間、家人と共にホンジュラスの旧首都コマヤグアに住んだが、交通の不便な国ゆえ韓国製の中古SUVを使っていた。
【写真−1 背中側にはマヤの鳥が描かれている】
当時のホンジュラスは中古自動車屋あるいは市場というものはなくて、中古車を求めようとしたら新聞の売買欄で知る程度しかなかった。また車体の窓に『Se Vende(売りたし)』と電話番号と一緒に書いて走っている車を見つけ、連絡して交渉をし手に入れることも多い。
乗っていた韓国製のSUVも、駐車していた車に書いてあったのを見つけ連絡し、手に入れたが、どういう訳かオリジナル書類はアメリカのニューヨークであり、あまり車の登録などどうでもいいような国なので、そのままにしてセブに帰るまで使った。
このSUVでホンジュラス国内の主要道の東西南北を家人と共に走ったが、その一つにグアテマラ国境に近いコパン・ルイナスまで行ったことがあり、道路距離は片道300キロを超え、そこで買ったTシャツが写真−1で、元々は藍色であったがかなり色落ちしてしまった。
藍というのはタデ科の藍から作った染料で、日本では阿波(徳島)が現在も有名だが、沖縄から東南アジア各地にも藍染めの織物が存在する。この自然染料も化学染料の普及で廃れる一方だが、藍で染めた深い藍色はかなり味がある。
【写真−2 これは遺跡の外れの方で大きい遺跡はたくさんある】
コパンはマヤ遺跡があるので有名な場所で、写真−2の石を築いた遺跡が残り1980年に世界遺産に登録され、服飾の面ではどうなっていたのか良く分からないが、藍色というのは虫除けになる色で、この地にも藍染めに似た物があったのではないか。
マヤ文明というのは紀元前2000年頃から起こり、メキシコ南東部からグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス西部に点のように存在し、1500年代にスペイン人がこの地域を侵略し衰退、滅亡するが、17世紀末まで細々と続いた。
特に『マヤ暦』は知られ、このマヤ暦が2012年で終わっていることから2012年は『人類滅亡年』とかなり話題になったが、全く何もなく、こういった終末論というのは話題になれば良いという、根拠などいい加減なこじつけばかりで信じる方が悪いのではないか。
そのコパン遺跡、コパンの町から歩いて行ける距離にあり、写真−2のように石を積み上げた遺跡も数多く残っているが、まだ発掘されていない場所も多く、加工された石が無造作に転がっている野原も多い。
コパンに王朝が生まれたのは紀元435年とされ、16代の王が即位した記録もあるが、紀元前からこの地域に人は住んでいる。
この遺跡のある場所はグアテマラ最大の川『マタグア川』の支流『コパン川』が谷間を作っていて農耕に適しているが、この川で『翡翠』が採集出来、これが交易品として王朝を支え、出土品も翡翠の装飾品が多い。【写真−3 訪れてから10年以上経つから今は観光客で溢れているのでは】
コパン・ルイナスという町は人口4万人足らずで、写真−3で分かるように石畳の道とスペイン植民地時代の建物が残り、落ち着いた雰囲気を持つが、世界遺産があるために世界中から観光客が集まるホンジュラスでも代表的な観光地になる。
また、すぐ近くにはホンジュラスからグアテマラへ抜ける国境ポイントがあって、コパン遺跡の次にグアテマラ内のマヤ遺跡を目指す人も多く、コパンの町からバスで国境を超えてグアテマラの首都、グアテマラまでそれほど遠くない。
この国境ポイントを車に乗って見に行ったが、ホンジュラスとグアテマラの関係は良好なのか緊張感はなく、コンテナ車が停まっているのが国境らしい風景で、このポイントを地元の人は歩いて行き来していた。
中米諸国は相互を行き来する車に対して共通の書類を作っていて、それを提示すれば簡単に行けるようになっていて、小生の車もその書類を首都のテグシガルパで作ろうと思ったが、外国人には面倒臭そうなので止めた。
住んでいたコマヤグアからコパン・ルイナスまで300キロを超えるが、行きは一気にコパンまで走ったが、車の少ない国なので、それ程道の状態は良くなくても朝出発して日の明るい内に到着できた。
帰りは途中の町で一泊してゆっくり帰ったが、ホンジュラスは高原に開けた国なので、ホンジュラス松が生い繁る山間を右に左に見ながらの運転は楽しかった想い出を持つ。
- 私の捨てられないTシャツ その−(3) セブ日本人補習授業校のTシャツ
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2018.05.09 Wednesday
日本の文部科学省によると、補習校は週末や平日の放課後を利用して、海外在住の日本人子女を対象に日本の教科を日本語で教える教育施設となっている。
【写真−1 この頃はTシャツを作る業者も良心的で出来は良い】
1958年アメリカのワシントンに設立されたのを皮切りに、年度は少し古い統計だが、2015年現在で世界に205校、学ぶ小中学生は約2万人で、全日制の日本人学校と同じくらいの在籍者がいるから、海外での日本人子女の教育に大きな役割を担っている。
セブに補習校が出来たのは1980年、セブの在留邦人が子女教育の必要性から、有志が集まって始めたものだが、当時のセブには数十人程度しか邦人はいなくて、日系企業も2桁に達するかという時代であった。
セブ補習校は1983年に文部省から補習校として認定されるが、教室は個人宅、修道院など点々とし1991年、日本人会、日本人商工会議所が借りた事務所を教室として使えるようになって、ようやく固定された教室を確保。
当時の在校生は20人台、その多くは日比の2世で、セブに進出していた企業駐在の子どもは数えるほどしかいなかった。この年、補習校を中心にした第1回の運動会が開かれ、現在に続くが、今のように運動会におそろいのTシャツを誂えて着るようになったのはいつからかは分からない。
しかし、写真−1は2002年に補習校で教えている講師がデザインしたもので、それ以前のTシャツは残っていないので、この年から運動会にTシャツを作ることが始まったようだ。
ただし、Tシャツにプリントするデザインは以降、在校生から募集して選び、そのTシャツは何枚か拙宅にも残っている。
小生が補習校と関わったのは、1993年からで、間は空いているが2006年まで続いた。1993年当時の補習校は今のアヤラのモールが造られる前の閉鎖したゴルフ場とかつてのセブの繁華街マンゴー通りに挟まれた場所にあるビルの2階にあって、そのビルはまだ残り、2002年になって、現在地のビルに移転し、現在に至る。
そうやって書いていて現在地に移転したのが2002年7月で、運動会は10月に開催したので、時間的な平仄は合いデザインをした人の顔も想い出した。
【写真−2 この数字を見るとセブ補習校の長い歴史を感じさせる】
写真−2はTシャツの後ろにプリントされた数字で、1983というのはセブ補習校が文部省から正式に認可された年になる。
小生が辞めた2006年当時は在校生が100人を超える大所帯となり、将来的には200人に達するのではと予測されたが、今の在校生は100人を遥かに割っていて、補習校の運営費は授業料と日本政府からの援助、その他寄付によるため、在校生減少によって財政的に苦しいと聞く。
現在の補習校もセブ日本人会、日本人商工会議所との共同事務所を使っているが、賃貸物件であり3者が払い込む賃料は相当な額に上がり、もう少し頭を働かせて、土地を確保して自前のビルを造れば、他にも貸すことができて独立採算は可能と思われるが、セブに住む日本人でそこまで考えられる人は少ない。
さてセブ補習校、小生が教えていた頃は在校生の3分の2は日比間の2世で、世界的に見ても特異な補習校で、これはインドネシアのバリ補習校も同じでそちらは学者が研究対象にしているようだがセブは行われていない。
海外在住邦人が増え、国際結婚も増え子女の教育というのはいつの時代でも保護者にとっては大問題で、日本人学校が現地に在れば入れるのが従来の方法であったが、最近は保護者の意識も変わって、日本人学校があってもインターナショナル校や現地校に入学させる保護者も多いといわれる。
補習校は国から補助が出ているといっても、教えている人間は教育とは元々無縁な人で、その多くはセブに進出した企業の駐在員の奥さんが中心で、中には子どもの入学を申し込みに行ったら先生になってくれと懇請されてなったなどという例もある。
【写真−3 こういうものは余程気合が入らないと出来ない】
このように有志のリレーが連綿と続けられて補習校は存続し、今年は創立35年目の年となり、小生が教えた生徒は既に成人し、時々モールなどで『先生』と呼ばれてビックリすることがある。
聞けば結婚して子どもがいるなどと近況を語り、こちらも歳を取ったなと思うと同時に嬉しさも抱く。先生は3日やったら辞められないというが確かにその気持ちは分かる。
写真−3は2004年に出した記念誌だが、内容は当時のクラスごとの写真と寄せ書き、それぞれの個人の作文に補習校の歴史年表、歴代在校生名簿、歴代講師名簿など記載されていて、正にセブ補習校の歴史が分かる。
この記念誌以降、この手の物は出ていないようだが、歴史というのは連続して記録されていて価値が出るもので、今年は開校35年と切の良い数字なので是非作って欲しいものだが、そういう元気が今のセブ補習校にあるかどうかは疑問である。
- 私の捨てられないTシャツ その−(2) アフリカ・ジンバブエのTシャツ
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2018.04.28 Saturday
1980年代の終わり頃から1990年代の初めにかけて、足かけ3年小生はアフリカで仕事をしていた。日本を出発した時は『昭和』であったが、日本へ帰った時は『平成』になっていて、天皇が死んだ時もアフリカの現地で知った。
【写真−1 30年以上経っても文字のデザインはまだモダン】
住んでいたのはアフリカ内陸部にある『ザンビア』という国で、当時は成田を出て、ロンドンで乗り換えて1泊。ロンドンからケニアのナイロビに向かい、そこでまた乗り換えてザンビア首都の『ルサカ』に入ったが、丸々4日かかった長旅でもあった。
当時のアフリカは飢餓や内戦で今にも国が崩壊するような様子で、世界中から援助の手が差し伸べられ、特に欧米の著名な歌手などが歌い継いだ『We are the World』が世界中に流れ、日本でも一時的にアフリカ支援ブームが起きた。
ザンビアの当時の大統領は1963年の独立を主導したカウンダといい、他のアフリカ諸国同様に長期独裁政権を維持し、大統領夫婦が貯めこんだ財産は世界でも有数の額と噂され、汚職何でもありの状態であった。
権力者の懐だけは肥える一方だが、ザンビアの主要輸出産品である『銅』の国際相場が暴落して、国内経済はガタガタ。赴任前に国内経済は滅茶苦茶と聞いていたが、いざルサカの大きなスーパーマーケットへ行ったら、店内の棚には豆の缶詰めがズラーとあるだけで、他の品物はほとんどなし。
この情景を見て、小生は下手をするとまともな食料を得られず、良くて栄養失調、悪くすれば死んでしまうかも知れないと本当に思った。
その象徴的なのは『コカコーラ』で、看板は見るが、コカコーラは全く街から姿を消していて、社会主義を標榜する政府はまことしやかに『アメリカ帝国主義の飲み物は禁止した』というが、実態は外貨が枯渇してコカコーラの原液が輸入できないためで3年間の間にコカコーラを国内で見ることはなかった。
コカコーラは高校生の頃はずいぶん飲んでいたが、やがて健康に良くないと分かってその頃はあまり飲まなくなったが、ないとなれば欲しくなるもので、聞くとジンバブエ国境へ行けば飲めるという。
ザンビアとジンバブエの国境にはアフリカで3本の指に入る絶景地の『ヴィクトリアの滝』があり、これを見ない手はないと計画するが、陸路で行くとすれば『鉄道』しかなく、この滝見物には雨季、乾季にかけて都合3回行っているが何れも鉄道利用であった。
ザンビアの鉄道というと『タンザン鉄道』が有名で、これはザンビアの銅鉱山地帯に近いカピリムポシから隣国のタンザニアの首都ダルエスサラームまで行く国際鉄道線で、全長1859キロというから相当な路線である。
ザンビアに居る間に、ぜひ一度この国際鉄道に乗りたいと思ったが、結局実行することは出来ず、ザンビア側の起点のカピリムポシ駅を見るだけで終わってしまった。
このタンザン鉄道は中国の援助で敷設されたもので、ザンビア、タンザニアと中国と調印が成されたのが1970年で、驚異的な敷設スピードで1978年に開通した。このタンザン鉄道敷設には数万人の中国人労働者が従事したらしいが、現地で聞いた話ではニンニク畑を作りながら労働者は働いたという。
この頃の中国は『文化大革命』の真っ最中で、国内は狂乱状態であったにも関わらず、アフリカ諸国には着々と援助をしていて、今のアフリカ諸国が中国贔屓であるのはこういった下地があるからで、日本が近年急にアフリカ援助を打ち出しても既に遅い。
さてヴィクトリアの滝に戻るが、経済は滅茶苦茶なので鉄道も走っているかどうかという状態であったが、ともかく駅へ行って確認すると走っているらしい。しかし、時刻表などあってもないようなもので、いつ列車が走るか分からない。そのためいつ走るか分からない列車を待つ人々が駅前で寝転んでいる。
幸い切符も買えて列車も出たが、この時乗ったのは上下2段対面の寝台車で、延々とザンビアの沿線を走り続けてリヴィングストンに到着。20時間以上かかったような気もするが、車内でどうやって食事やトイレを済ませたかは覚えていない。ちなみに首都ルサカからリヴィングストンまで路程距離は488キロある。
【写真−2 かなり丁寧に作られ値切ったのが悪いくらい】
リヴィングストンの町の様子はもう忘れたが、今の人口は17万人というからかなり大きい町と思うが、当時はあまり大きさは感じず、町から滝の水煙が上がっているのが見えた。
早速滝見物に行くが、落差100メートルを超し、それが2キロ以上に渡って水が落ちる様は感動的で来た甲斐があった。このヴィクトリアの滝だが雨季と乾季の時は全く水量が違い、乾季の時にはゴムボートで滝壺まで行け、見上げる岸壁は迫力充分。
また、滝の上流はさぞ急流かと思っていたが、池状になっていて遊覧船で見物が出来、カバが浮いていたりして以外に緩やかであった。
ザンビア側の滝の傍にコロニアル調のクラシックなホテルがあって、そこの庭の椅子に座って待ち望んでいたコカコーラを頼んだが、透明な氷が入っていたことと、炭酸がピチピチ跳ねていて、同じザンビア国内でも観光地は違うなと思った。
ヴィクトリアの滝はザンベジ川にあるが、この川を跨いで鉄橋が架かっていて、長さは260メートル、1905年架橋というから100年以上経つ歴史的な橋で、橋からザンベジ川の水面まで128メートルあって、かなりの高さで橋から下を覗くと足がすくむ。
今はこの高さを利用して『バンジージャンプ』が出来るらしいが、この橋の中間はザンビアとジンバブエの国境になっていて、ヴィザがなかったのでその時はジンバブエ側には行けず、橋上に国境を示す線が引かれていたと思うが、その線を跨いでいる写真を撮ったような記憶を持つ。
その時土産店で買ったのが写真−1のTシャツで、今も印刷の色が褪せずジンバブエ製のようで、ザンビアのTシャツや滝のTシャツもあったと思うが、買わなかったのはデザインが良くなかったためではないか。
観光客が屯する広場の樹の下で地面に直接品物を置いて商売をしているグループがあり、いかにも民俗的な木彫りやアクセサリーを売っていた。木彫りに面白い物があり『エボニー』などといっていたが靴墨を擦り込んで色を付けた偽物も多い。その中で写真−2の木彫りを買った。左側の像で高さ30センチあり、上から写真を撮っているから足が短く見えるが、かなり出来は良く裏側もしっかり彫っていて、これらの像の他に何点か買い、今はセブの拙宅に飾ってあり、アフリカを想い出す記念品となっている。
交渉で手に入れたが、向こうも外人観光客と見て足元を見ていて、10倍の値段を付けたのには驚くより苦笑したが、だいたいそのくらいのふっかけ値段から始まるようだ。
話は違うが、こういうアフリカ人の商売というので想い出すのは、町の市場に行くと『ダイアモンドはどうか』と売りにくる人間が屯していて、外人と見ると近寄って来て、布に包んだダイアモンドを見せてくれる。
あの近辺はダイアモンドの産地にも近く、もしかすると本物が安く買えるのではないかとも思うが、売っている人間が高価な品物を売っている割には貧相な服装でどうにも信じられない。
ある時、道端に落ちているガラス片を拾って『これと交換してくれ』と寄ってくる人物に見せたら、奇声を挙げて逃げって行った。あの様子からガラスの破片でも磨いてダイアモンドと称して騙しているのではないかと思った。