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この一枚2018年 セブ篇 その(14) フィリピンの晴れ着と日本の晴れ着

 先日、ボホール島で行われた結婚式に出席したが、その時教会内を歩く3人の子どもの姿が目に留まり一枚撮った。

【1回限りしか着れそうもないドレスで勿体ない感じもする】

 結婚式の儀式を手伝うために、子どもがロング・ドレスを着て参列するのはフィリピンの結婚式では良く見る光景だが、こういう小さな時からロング・ドレスを着ているからフィリピン人のドレスの着こなしは上手いと納得する。

 子どもの晴れ着というと、日本には七五三があるが、フィリピンには年齢で晴れ着を着るのはカトリックの洗礼式と『DEBUT
』と称されるものが代表的で、洗礼式は乳児の時に親に抱かれて受ける。

 一方のDEBUTは元々フランス語から来ていて、社交界に初めて出ることから始まり、色々な世界に初登場することをデビューと称するのは知られ、フィリピンのデビューは元々あった慣習なのか分からないが、スペインの植民地時代に持ち込まれたのではないか。

 フィリピンのデビューは18歳の誕生日に行われるが、この18歳というのはフィリピンでは選挙権を持つ『成人』になり、いわば日本の成人式と同じになる。

 ただし、このデビューのお祝いは各家庭で財力に応じて行われ、誰でも盛大に行えるものではなく、富裕家庭の催すお祝いは生バンドを入れるなど派手さも極みで、こういったところにフィリピンの格差を感じさせる時でもある。

 因みにフィリピンのこの手のお祝いパーティーは、主催者が全部負担し、招待された客は気の利いた者は贈り物を持ってくるが、多くは手ぶらで食べて飲んでサッサと帰って行くのがこちら流。

 お祝いは祝ってもらうものと思っている小生など、自腹で人を呼んで飲み食いさせるなど、いまだ持って馴染めないが、こちら流とあっては仕方がないと諦めている。

 さて日本の成人は、この間20歳から18歳にすると法律が改定されたが、施行されるのは2020年となっているので今の16歳から適用となるが、この2年間の差というのは現在の18〜19歳にどう作用するのであろうか。

 日本の七五三のことに触れたが、小生が覚えているのは5歳の時で、ネクタイを締めて近所の神社に行った記憶があり、社殿に昇ってお祓いを受けたような記憶を持ち、祭壇中央に置かれた光る鏡の印象が強く残っている。

 しかし、5歳時と書いたが七五三は数え年で行うので、これだと満4歳になり、そんなに小さな時の記憶が残っているのかと疑問を持つ。

 今思うに、親は数え年ではなく、満年齢の5歳で七五三をしたのではないかと思い、これだと幼稚園に行っていた時で、この幼稚園時代というのはかなり記憶が残っていて平仄が合う。

 さて、日本の晴れ着というと成人式に着る晴れ着が代表的で、特に女性がこの日に着る振袖は一生一度と今なお人気は高いが、一生に一度ならより簡素にという発想があっても良いのではないか。

 この日本の成人式の晴れ着では、先頃成人式の晴れ着を扱う会社が式前日に雲隠れしてしまい、晴れ着を楽しみにしていた女性が悲嘆に暮れているという日本のニュースが流れた。楽しみにしていた人は気の毒と思うが、成人式に振袖を着るなどいい加減に止めた方が良いのに、こういう声は少数派であまりそういった声は聞こえなかった。

 今の日本の若者の未来はどう見ても暗く、せめて一時でも良い思いをさせたいというのが親の根底にあるから、虚飾そのものの成人式、結婚式、各種パーティーなどが派手になってしまう日本となるのであろう。



 

author:cebushima, category:この一枚 2018 セブ篇, 18:26
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この一枚2018年 セブ篇 その(13) セブでポルシェが売れる時代

 先日セブの埋め立て地に造られたショッピング・モールへ初めて行ったが、その中に写真の自動車を扱っている販売会社があった。

【これがポルシェかという特徴のない青い車】

 写真の左に写る看板にロゴと『PORSCHE
』の文字があり、セブにもポルシェを扱う店があるのかと驚いた。ポルシェは長年の憧れの車であったが、小生の憧れていたのは、このショー・ルームに置かれていたような今風の無個性な車種ではなく、『356
』と、その後継モデルの『911』であった。

 写真に写るオープン・タイプのポルシェなどあまり興味はない。ポルシェという名前は開発者のポルシェ博士から取っていて、同じドイツ製のフォルクスワーゲンのビートルとポルシェが似通ったデザインになっているのは、同博士がビートル開発に関わったためである。

 356は戦後の1948年から売り出したが、ポルシェの名を一躍有名にしたのは1955年5月に、映画俳優の『ジェームス・ディーン』の運転していたポルシェが事故を起こし、ディーンは死亡。この時乗っていた車は『ポルシェ550』というレース仕様車で、ディーンはレース場に運ぶために自ら運転し事故に遭ったとされている。

 356は1965年まで生産が続けられ、その後継車が911で、現在まで仕様は変わってはいるがポルシェの味は継続され生産が続いているが、最近はゴテゴテとしたデザインが加わり、ポルシェの良さは失われている。

 小生が高校生の頃に『平凡パンチ』が創刊され、アイヴィー・ルックが流行り、『VAN』の製品を買うために新宿の『三峰』に行くのが楽しみな時代であったが、日本で初めて自動車レースが鈴鹿で開催されたのもこの時代であった。

 第1回日本グランプリが開かれたのは1963年で、この年に『ポルシェ904』を駆って優勝したのは式場壮吉と思っていたが、式場は第1回にはトヨタのレース仕様の『コロナ』に乗って優勝していて、ポルシェで優勝したのは第2回日本グランプリの時で、記憶違いと分かった。

 平凡パンチが創刊されたのがこの年、1964年の4月で、日本グランプリ開催に合わせて記事が組まれていて、山手線の中で若い男の人が読んでいた平凡パンチをを横目で覗いていたのを思い出した。

 式場は山下清を見出した著名な精神科医を叔父に持つ、千葉県市川の病院の御曹司で、好きな車に打ち込めるいわゆる金持ちのドラ息子であったが、日本の自動車レースのパイオニアであったことは間違いない。

 レース界から退いた式場はいろいろな事業をしたが最後には病院経営に専念、再び世に名前が出たのは1978年に歌手の欧陽菲菲と再婚したことだが、2016年に77歳で亡くなっている。

 レース界を退いてから式場が乗っていた車はロールスロイスやベントレー、フェラーリといったシリーズの中の名車ばかりで、車三昧の人生を送ったことが分かり、鈴鹿で走ったポルシェ904は持ち主は点々としたらしいが、今も現存するというから一度見てみたいものである。

 ポルシェは憧れの車と書いたが、一度ポルシェ911を買う気になったことがある。知人が使っていた並行輸入車で金額も少々無理すれば買えそうであったが、その話が進んでいる内に海外へ出ることになって断念した。

 さて、写真に戻るが写真の青いオープン・カーは『ボクスター718』という車種で、ボクスターはポルシェの中でオープン・カー専門の車種で、ポルシェの中では異彩な位置を占めるが、昔からのポルシェ・ファンにどうもという感じがある。

 しかし、1千万円を軽く超すポルシェの中では案外と安く、日本では700万から800万円で売られているらしい。このフィリピンではいくらで売られているのか分からないが、倍ぐらいはするのではないか。

 どこの国でも金を持つと高い車を持って誇示する連中があるのは共通していて、そういった高い値段を付けてもフィリピンには買う層があり、商売としてはやって行けるようだ。

 このポルシェの同じフロアーにやはりドイツ車の『アウディ―』が売られていて、富裕層向けの戦略でこの販売店があると分かるが、1日1ドルで暮らすような貧困層が溢れるフィリピンではいくら何でも目立つ。

 そういえばアキノ前大統領がポルシェを愛車としていたのは有名だが、在任中は運転を禁止されていたと聞き、退任した今はそのポルシェのハンドルを握っているのだろうか。

 スピードの出る高性能車も結構だが、セブで写真の様な車を走らせてもスピードの出せる道はないし、慢性の地獄的な渋滞に巻き込まれたらどうにもならないし、売り物のオープンも照り付けるフィリピンの太陽の下では干上がってしまうから役に立たず、こういう車を持つ人はそういうことを意にかけない金持ちでないと駄目なようだ。

 こうしてポルシェのことを連綿と書いているが、結局ポルシェを持つことは諦めて、フォルクスワーゲン・ビートルを日本とフィリピンで持ったのが気休めになるが、このビートルを『貧乏人のポルシェ』と呼ぶが、確かにデザインと水平対向の空冷エンジンを後部に積んだ様子はポルシェと同じである。


 

author:cebushima, category:この一枚 2018 セブ篇, 19:17
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この一枚2018年 セブ篇 その(12) 庭で咲いたドラゴン・フルーツの花

 2013年3月、ラオス・ヴィエンチャンへ行った時に、知り合いのラオス人の庭に生えていたドラゴン・フルーツの先端をもらい、セブへ帰ってからそれをいくつかに輪切りにし、ポットに植えた。

【結実するかどうか楽しみ】

 ドラゴン・フルーツというのはサボテンの仲間なので環境に強い植物になり、そのポットに根付いた苗を鉢植えにして育てたが、あまり手をかけないで育つには育つものの、実を結ぶまでには至らなかった。

 それでも3年半後に小さな花芽を一つ付けたが、これは育たず小さい内に枯れ落ちてしまった。このためラオス育ちのドラゴン・フルーツは、セブでは花も実も駄目な種類かとも思っていた。

 

しかし、セブ島の北の方に住む知人にこの苗を分けたら、花が咲き、結実したという話を聞き、植えた環境にもよるが諦めるのは早いと思った。

 それが、先日、家の者からドラゴン・フルーツの花が一つ咲いていると教えられて、急いで写真に撮った。咲いている場所は車の出入りするゲートの柱横で、あまり栽培条件は良い所ではないが、黄色い花を咲かせていた。

 ドラゴン・フルーツの花は、満月の夜に咲いて一晩で萎むといい、開花時は良い匂いを振り撒くらしいが、花の蕾自体があることさえも気が付かなかった。

 花は結構大きく、根元から25センチ近くあり、この大きな花が他の枝に寄りかかるように盛りを過ぎた感じで萎れが始まり、花は既に終わりへ向かっているようであった。

 

ドラゴン・フルーツは自家受粉より人工的に授粉させた方が結実すると聞いていたので、人工授粉しようと思っても花弁が雌蕊と雄蕊を覆い隠していて手が付けられない。しかし花自体は甘いのか、蟻が列を作ってたかっているので、蟻による受粉を期待したい。

 写真のドラゴン・フルーツの花は黄色く、細長い花弁を持っていて、他で知るドラゴン・フルーツの花は花弁はこれほど長くなく、品種はまた違うのかと分かるが、実の中味の色は白色になるか紅色になるのか花を見ただけでは分からない。

 ドラゴン・フルーツは結実してから2ヶ月くらいで収穫出来るそうだが、上手に育つかどうかは分からず、注目するしかないが、楽しみであることは確かである。

 

今でこそドラゴン・フルーツは知られた果実で、スーパーの店頭で普通に見られるが、ここ最近であって、小生自身も最近まで知らなかった。

 

タイのホテルに泊まった時、朝食のフルーツ皿に白身に点々と黒い胡麻の様な種を持ち、大根の様な感じのフルーツがドラゴン・フルーツとの初めての出会いだが、その傍にあった紅色の鱗の様な皮に包まれた様子も不気味な感じがした。

 

それでも食べて見たら、サクサクした感じは悪くはないが、中途半端な甘さで続けて食べてみたいという気は起きなかった。

 

それがラオス・ヴィエンチャンに住んでから、近くの市場内にある果物屋でドラゴン・フルーツを普通に目にするようになり値段の安さから買い求め食べるようになった。

 

最も淡白な味だから、ドラゴン・フルーツとマンゴーをスライスにし、ヨーグルトをかけて朝食に食べていた。

 

 このヨーグルトもヴィエンチャンの店で売っていた自家製の様な品物で、その味は濃く、現在セブで買っている市販のヨーグルトとはずいぶん違う。そういえば、ヴィエンチャンで買っていたタイ製の牛乳もセブで買う牛乳より遥かに濃厚であった。

 

 セブで購入する牛乳はロング・ライフ牛乳といわれる種類で、その味は小学生の頃給食で無理やり飲まされた『脱脂牛乳』そっくりで、こんな牛乳を大メーカーが売っているのかと驚くが、セブでは牛乳に関しては選択肢はない。

 

 このドラゴン・フルーツだが、セブの北の方にある畑に移植して専門的に栽培したら面白いと思うが、生き物相手は片手間では難しく、思うだけで実現には遠い。

 


 

author:cebushima, category:この一枚 2018 セブ篇, 11:24
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