RSS | ATOM | SEARCH
東京慕情 その(26) 文化篇−3 東京の縁日 お酉さま、朝顔市、ほおずき市

 千住の実家近くに大正時代に作られた『大正道路』があって、子ども頃この通りでは夜店が開かれていた。夜店は縁日に出るもので、この通りには小さな『お稲荷さん』があって、それにちなんでいるが、子どもにとっては夜店の面白さと楽しさしか用はなかった。

【写真−1 平日の何もない神社も面白い】

 いつ頃この夜店がなくなったのか知らないが、老人ばかり住む町になってそういった催しを行う元気が失せたことがなくなった理由の一つと思うが、記憶の中にあるだけで写真などは一切ない。

 そこで写真に残っている東京の知られた縁日のことを書いてみたい。写真−1
は台東区千束にある『鷲(おおとり)神社』で、この写真は2010年4月、浅草へ行った帰りのバス車内から写している。

 鷲神社は『お酉さま』という呼び方が知られていて、この写真では気の抜けた変哲もない神社風景を晒しているが、毎年11月の『酉の日』には何十万人も押し寄せて人の波で賑わう。

 お酉様へ行った記憶は小学生の頃からあり、両親に連れられその帰りは浅草に出て美味い物を食べるというのが、我が家の年中行事であった。今の東京は身の凍えるような寒さというのはなくなったが、子どもの頃は木枯らしが電線を鳴らし、氷や霜柱は普通で水道管が凍る日もあった。

 お酉さまは夜に行くため、防寒を充分にして出掛けるが、それでも寒く震えながら神社内を歩くが、境内は人でギッシリ、歩くこともままならず、遠くからお賽銭を投げる人が多く、そのお賽銭がフードの中に入っていたこともあった。

 このお酉さまはいろいろな縁起物の小物を取り付けた『熊手』を売る店が並び、買い手と売り手の話がまとまると威勢の良い声で手締めをしていて、いかにも江戸の風物というのが子どもでも感じた。

 この熊手、商いをする人は年々大きくしていくのが定法らしいが、小生の家の様な普通の家庭は神社で稲穂が付いたお札の様な物を買っていたと思うが、詳しいことは覚えていない。

 お酉さまは酉の日に行われるが、11月の一の酉、二の酉までだが、年によっては三の酉まであることもあり、その年は火事が多いと昔からいうが、あまり根拠はなく、今年の2018年は三の酉まである。

【写真−2 最近は縁日に浴衣で歩くのが流行っているらしい】

 写真−2は同じ台東区の『入谷の朝顔市』光景で、写真を撮った日は2010年7月8日。これで分かるように朝顔市は七夕の前後に開催される。

 入谷の朝顔市として有名になっているが、元々はここにある法華宗の『真源寺』という寺の境内で朝顔を披露したのが始まりという。真源寺という名はあまり知られていなくて、別名『入谷の鬼子母神』といえば知られるが、境内は都市化の波に囲まれて普段は目立たない佇まいである。

 入谷は『入谷田圃』という言葉があるように江戸期は田圃の広がる地で、すぐ傍には『根岸の里』もあり、鄙びた地域であった。そこに住む植木屋が朝顔を栽培し売っていたが、かなり賑わったがいつの頃か廃れて、今のように復活したのは戦後になってからという。

 朝顔市は夏休み前の暑い時期で、やはり両親に連れられて行き、その後浅草で食事というのはお酉さまと同じだが、朝顔市で買った鉢を抱えて浅草を歩くのが少々自慢の感じもあった。

 写真に写っている朝顔の鉢はプラスティック製で、支柱もプラスティックになっているが、子どもの時に抱えて持った鉢は素焼きで支柱も竹であり、時代の変化を感じさせ、値段も10倍くらいになっていて、気軽に変えた朝顔も今や高級品の趣きがある。

 この入谷で買った朝顔、夏休みの宿題で観察絵日記を作ったこともあるが、花の終わった鉢はどうしていたのだろうと改めて想い出す。

【写真−3 いなせな装いで売っているが多くはアルバイト】

 写真−3は浅草寺境内の『ほおずき市』で、撮影日は2010年7月10日とあり、入谷の朝顔市へ行った2日後に行ったことが分かる。浅草寺境内では色々な縁日があり、この『ほおずき市』と、12月16日の『羽子板市』が特に有名で、何れも由来は浅草寺の縁起と関係がある。

 

 ほおずき市は浅草寺に年12日ある『功徳日』と関係があり、功徳日とはこの日に浅草寺にお参りすると普段より何倍も効果があり、ほおずき市の日は『四万六千日』分お参りしたことになり、つまり人の一生分以上の効果があるとされ、何ともご都合的な日になっている。

 

 そういう縁起はともかく、この日は写真のようにほおずきを売る店が境内に何十軒も並び、ほおずきの鉢とほおずきの成った枝を売っていて、入谷の朝顔市と共に夏の風物詩になっている。

 

 やはり子どもの頃、両親に連れられてほおずき市へ行き、その後浅草の名店で食事をするが、今思い出すと、入谷の朝顔と浅草のほおずきが家に同時にあったという記憶はなく、両方の縁日の開催日が近いためか、1年おきにそれぞれを買っていたのかも知れない。

 

 その買って来たほおずきの鉢に成るほおずきの実はまだ青く、それが熟して外皮が紅くなるのは楽しみであったが、それが過ぎると興味を失い、いつの間にか庭の片隅に追いやられる。

 

 ほおずきはナス科の植物だが、実家の庭にも生えていた時があり、その紅い実の中味を楊枝でほじくり返して遊んだりしたがやはりそれだけであったが、ほおずきは『ほおずきを鳴らす』という言葉があるようにこの実で音を出せる。

 

【写真−4 海ほおずきもやがて消える風物になるか】

 

 音は唇との振動によるものだが、この音を出すほおずきで思い出すのは『海ほおずき』で、かつては夜店に行くと海ほおずきを売っている店があって、店頭に並べられた海ほうずきの様々な色の具合と涼しさが甦る。

 

 海ほおずきは海に生息する巻貝の卵嚢、つまり貝が岩に産み付けた卵の殻でそれを採集して商品化していて、人工品万能の時代には廃れてしまったが、浅草のほおずき市の写真を再確認したら写真−4の海ほうずきを売る店を一枚撮っていた。

 

【写真−5 風鈴の音が五月蠅いとトラブルになる時代でも生き残っている】

 

 このほおずき市で『釣り忍』が売られていて撮ったのが写真−5。この植物は忍と名付けられ和歌にも使われる奥床しい語だが、シダ科に属する名前も『シノブ』で、日本から台湾方面に生える。

 

 これを吸水性の高い植物で土台を作ってシノブを植え付けたのが『釣り忍』で、写真のように風鈴をぶら下げて、暑い日本の夏に涼しさを感じさせるが、この釣り忍、死んだ父親が好きで、夏になると軒先にぶら下げていた。

 

 ただし、浅草のような所で買ったのではなく、実家近くの大正道路で開かれていた夜店に植木屋も結構出ていて、そこで買ったようだ。

 

 この釣り忍、夏を超して秋になり寒さが近づくと寒さに弱いのか年を越すことはなく、いつの間にか枯れた釣り忍を軒先から下ろし、処分するのが年中行事のようになっていた。

 

 このシノブ、似たようなのがフィリピンにも生息しているが、釣り忍にしようという発想はさすがにこちらにはなく、たまに網のバスケットに寄せ植えして売っているのを見るが、山に行けばいくらでも生えている植物なので、人気はいまひとつである。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情, 20:03
-, trackbacks(0), pookmark
東京慕情 その(25) 千住篇−10 北千住駅西口の駅前通り

 千住は足立区になるが、千住何丁目という地名はあっても、北千住というという地名はなく、北千住というのは上野から出ている常磐線の駅名であると再三書いている。

【写真−1 写真を撮った時は雨で少々暗かった】

 駅名を『千住』と付ければ良かったのに北千住となったのは、隅田川の向こうに南千住という駅があって、あちらは南だからこちらは北にしようとした、当時の鉄道関係者の教養のなさの表れで、今更いっても仕方がない。なお、南千住は荒川区になり南千住という地名は江戸の昔からある。

 駅名の付け方で甚だしい例として埼玉県の浦和があって、昔から走る京浜東北線に浦和駅が従来からあり、東京寄りに南浦和という新駅を作り、その後新しい武蔵野線が南浦和駅に交差し、京浜東北線に北浦和駅、武蔵野線に東浦和駅と西浦和駅が出来て東西南北の駅名が生まれた。

 おまけに武蔵野線には武蔵浦和駅などという駅もあって、彼の地に位置関係を知らない人間には紛らわしく、どうも鉄道の人間は想像力が足りな過ぎる。

 写真−1
は現在の北千住駅前西口側の様子を撮ったもので、正面のビルが今の駅になる。このビルは開業当時『ウィズ』といっていたが、今は『ルミネ』になっていて、この西口は大きな変貌を遂げたが、金太郎飴の様な駅前で特徴はない。

 その昔の西口駅前は狭いロータリーがあって、その中にバスの停留所がありそれを囲む店も戦後に出来たような小さな店が多かった。それが再開発されて駅前は広がり、2階に歩行者用のデッキが設けられマルイの進出するビルが造られ、高層のマンションも造られた。

 この敷地はかつて貨物を扱う場所もあったと思うが、再開発というとこういう昔からある敷地が狙われるのは、国鉄が民営化されてJRとなり利益追求型の企業になったことと関係がある。

 写真の商店街は昔から同じ道幅で、今は語呂合わせで『1010』と呼んでいるが、商いをしている店はずいぶん変わっている。

【写真−2 一時寂れたが今はかなり人出が戻ったという】

 写真−2はこの商店街の駅寄りにある日光街道の旧道と駅前通りが交わる四つ角で、今は写真でも分かるように『宿場町通り』などと名付けているが、千住の人間は『旧道』と呼んでいた。

 この辺りは小学生の頃、千住で一番高い場所と習った事があり、確かに少し傾斜が付いているが、標高がどうというほどの高さではなく、千住が隅田川と荒川放水路に挟まれた低地、0メートル地帯の一角であることを感じさせた。

 その旧道、芭蕉が大川(隅田川)を深川から溯り千住大橋に上陸し『奥の細道』に旅立ちを記し、この道を歩いたと思うと感慨深いが、千住大橋は写真を撮った側で、前方を進むと荒川放水路の土手にぶつかるが、この放水路が掘られたのは大正年間で、芭蕉の時代は田圃と畑が次の草加宿まで続いていた。

 この旧道沿いにはかつて映画館が3館(4館)あって、土手寄りから千住東宝、千住日活の封切館があり、千住大橋寄りに『ミリオン座』という洋画専門の名画座があった。

 括弧して4館とあるのは、閉館した千住日活近くに『白亜』という服飾専門の店があって、そのビル地下に洋画専門の名画座が後年開業し、やがて閉館したが、この映画館が千住最後の映画館となった。

 写真の四つ角には今はマンションが建っているが、かつては右側角には理髪店、左角には中華そばと書いた食堂があって、いかにも気取らない千住らしい佇まいを持っていた。

 その対面、写真を撮った側の右には何があったか忘れたが、左側のビルにはかつての月賦販売会社『緑屋』があった。この緑屋は倒産して、その後いろいろ店が入ったが、今は古本の『ブックオフ』があって、そこではずいぶんまとめ買いをした。

 本といえばそのビル並びに本屋があって、1階、2階とかなりの本が置いてあって中学生時代から通ったし、晩年の父親もこの本屋で買っていた。しかし。この本屋も潰れて今は薬屋チェーンの店に変わってしまった。

 時代と共に店が変わるのは仕方がないが、この駅前通りには団子屋とかせんべい屋とか昔ながらの店が多く、特に駅前には名前を忘れたが今川焼の実演販売をする店があって、かなり客が押し掛けていた記憶がある。そういった店が淘汰されて、どこにでもあるようなチェーン店が進出してきて商店街としての特色は失ってしまった。

【写真−3 昭和30年代はかなり遠くからこの辺りに衣料品を買いに来た】

 写真−3はその商店街の日光街道(国道4号線)に近い場所にある『ヨーカ堂』の店。ヨーカ堂は今は創業者の名前を付けて『イトーヨーカ堂』というらしいが千住の人間にとってはヨーカ堂である。

 というのもヨーカ堂というのは戦後、このビルのある辺りに間口の狭い衣料品店を創業者が開いたのが始まりで当時は『羊華堂』といっていた。この辺りは戦後安売りの衣料品店がたくさん並び、その買い物客で賑わい、小生など駅に行くのに店に群がるその人達を避けながら歩いた記憶を持つ。

 ヨーカ堂は近隣の同業の店を次々買収して大きくなり、この地にヨーカ堂1号店をオープンし、急成長。今やセブンイレブンを傘下にし日本の小売業の王者といわれるまでになったが、小生の母など『あのヨーカ堂がね』と、戦後すぐの店を知っているために良くいっていた。

 この1号店、かつてと違って買い物客の流れが変わって、食品売り場はともかく、衣料や日用品売り場など客の姿が少なく閉鎖するのではと噂されていた。しかもヨーカ堂は経営刷新で、各地の店舗を整理しているが、さすがに創業の地を無くすことには躊躇われるのか、いまだこの店舗を維持している。

 このヨーカ堂を過ぎると国道4号線の千住2丁目の交差点にぶつかるが、この通りに千住4丁目−水天宮行きの都電が通っていて、中学生になってこの停留所から乗って学校へ通った。

 この交差点角には佃煮を売るような店があったと思うが、今はなくその隣りは文房具の『松屋』があった。この松屋は千住では一番の品揃えでずいぶん通ったが、店を移してからいつの間にか消えてしまったようだ。それともまだどこかで営業しているのだろうか。

 

 交差点を渡った向こうに今は貸衣装屋の店になっているが、この建物は元々は三井銀行の千住支店であり、小生が初めて銀行通帳を作ったのもこの支店で、別に三井を贔屓にした訳ではなく実家から一番近い銀行だったためである。

 そういえば、その対面側に倒産した『山一證券』の営業所があったと思うが、目抜き通りにこういった金融関係の店があると何ともシケタ感じがあって、特に銀行など3時に表を閉めてしまうから余計そう感じる。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情, 19:12
-, trackbacks(0), pookmark
東京慕情 その(24) 千住篇−9 荒川放水路−2 千住新橋の今昔

 前回その(23)の中で『千住新橋』について触れているので、もう少し書き加えたい。

【写真−1 整備され過ぎて面白い区域でなくなった

 写真−1は千住新橋の千住側堤防の上流側から撮ったもので、河川敷は綺麗に整地されて野球のグラウンドになり、自転車道も作られ都会のオアシス的な空間となっている。

 しかし、この辺り一帯のかつては葦の生える遊水池のようになっていて、四手網で小魚を獲り、ザリガニ、カニを獲る絶好の場所であった。

 今、仮に当時の迷路のような草の生い茂る遊水池が残っているようであったら、子どもの水難事故が怖くて金網でしっかり立ち入れないようにしてあるだろうから、昔の親はここへは『行ってはいけない』と、注意はするもののそれほど神経質ではなく、子どもも頓着していなかった。

 そういう意味で現在の河川敷の公園化というのは事故防止の意味が強いようだが、子どもにとってどうだろうかという気もある。

 現在の千住新橋は上り下りに、それぞれ橋が架かっているが、小生が何度も橋を渡った頃は片側2車線の橋のみで、中央部に来ると車が通る度に橋が大きく揺れていたのを覚えている。

 橋を渡り切って少し行くと都バスの終点の営業所があって、確か『千住車庫』といっていたと思うが、ここから浅草寿町行きが出ていた。その傍に邦画専門の過去作品を上映する映画館があって、時々そのプログラムを見ては千住新橋を渡って観に行ったが、館名は覚えていない。

 今は土手の向こうに高速道路が長々と造られ景観を妨げているが、造られる前はどこまでも平らな風景が広がっていて、空気の澄んだ秋や冬にはその向こうに筑波山が見え、関東平野という言葉を実感させられた。

【写真−2 都電が廃止されてから一時は寂れたが今はマンションが建ち並ぶ】


 写真−2は現在の千住新橋に向かう日光街道(国道4号線)の様子で、この辺りは陸橋になって新橋へ繋がっているが子どもの頃は急な坂で新橋に繋がっていたような記憶がある。

 写した場所は日光街道を横断する歩道橋からで、この歩道橋のある辺りが千住4丁目で、水天宮へ行く都電の終点でもあり、都電が通っていた頃はそれなりに店などが並び賑やかな場所でもあった。

 写真でも分かるように今は中層のマンションが建ち並んでいるが、かつてのこの辺りには2階建ての古めかしい造りの釣り道具屋や釣り餌を売る店が何軒もあり、良く通ったものだが今はその面影など全く消えている。

 前回で触れているが写真の右に見える高いビルは元小学校跡地で、その校庭で野球をした記憶を持つが、まさか廃校になってビルが建てられるとは思っても見なかった。

 都電が廃線になってからこの通り沿いの商店は寂れて次々と店を閉めたが、何といっても交通の要所の北千住駅には歩いて10分程度と近く、不動産開発会社が次々とマンションを造りだし、今は千住は住みたい街のランキングでかなり上位に入るようになったというから変われば変わるものである。

【写真−3 橋の下というイメージには遠い光景】

 写真−3は千住新橋の橋下の様子で草加方面を写しているが、これでも分かるように橋は上下2本架けられている。これらの橋は1976年と1981年に相次いで架けられていて、小生が渡った橋は初代で1924年(大正13年)に架けられている。

 この時期は荒川放水路が開削中で、関東大震災もあったし、後年の戦争にもアメリカ軍の爆撃を受けず生き残った。

 初代の橋の渡り初めは千住に住む三世代家族が渡り6月4日に挙行されたが、小生の母親はその時の模様を目撃したことを話してくれたことがある。

 初代の橋の袂に今でいうホームレスが住み着いていて、橋の下を潜って通る時横目で通り過ぎたが、橋の下というのは上からの車の通る騒音はあるものの結構快適らしく、橋の下といえばホームレスと切っても切れない関係がある。

 この橋の下で思い出すのは高校生の時に同級生と琵琶湖から大阪へ宇治川、淀川をゴムボートで下った時、終点上陸地が大阪の十三(じゅうそう)という所で、既に真っ暗になっていて仕方なく橋の下に行き、先住民のホームレスにここで寝ることを断ったら『そんな端ではなくもっとこっちへ来い』と親切にいわれた。

 焚き火を囲みいろいろ話したがそれほど変な感じは受けなかったし、これを食べろと何かをもらったが何かは覚えていない。

 十三は何本も橋が架かっていて頭上を通る電車の音が五月蠅く、良くこんな所で生活できるなと思ったが、慣れれば思いの外快適で一晩過ごした。

 それだけの話だが、人はいろいろだなと思い東京へ帰ったが、今、都会の橋の下からホームレスは消えたが、そういう時代というのはどうかなという気がする。


 

author:cebushima, category:東京慕情, 09:39
-, trackbacks(0), pookmark