RSS | ATOM | SEARCH
東京慕情 その(34) 喪失篇−1 あゝ あの『大黒湯』が閉まっていたとは知らなかった

 2017年12月に『東京慕情 その(19) 千住篇−6 近所にたくさんあった風呂屋』という題で書いているのだが、先日日本のニュースを読んでいたら、その(19)の冒頭に出て来る『大黒湯』が廃業、取り壊されるとあり驚いた。

 

【写真−1 風呂屋の寺社風建築は見れば見るほど不思議】

 

 しかも営業を止めたのは2021年6月30日で、1年半も経ってからようやく知った訳で、やはり新型コロナの影響による閉鎖かと想像するが、この『大黒湯』の閉鎖によって千住の駅から西口地域には最盛期は24軒あった風呂屋が僅か3軒になったことも知るが、残った3軒はこどもの時から馴染深い風呂屋で、その頃を偲びながら綴ることにする。

 

 写真−1は『大黒湯』を斜めから写したが、もうこの時は入口が右側に移されていて、その前は唐破風屋根の正面から入った。ちなみに今は銭湯という言葉が使われているが、昔の下町では『風呂屋』であり、明治生まれの祖母などは『おぶ』といっていた。

 

 現在の『大黒湯』の建物は1929(昭和4)に建てられたもので、関東大震災後に造られた風呂屋は寺院と見間違う威容を誇り、この近くにある仏壇屋の息子が同級生でその家へ遊びに行く時『大黒湯』の前を通ったが、この手の建物の風呂屋は近所にいくつもあってその時は特別視しなかった。

 

【写真−2 経営者は1955年に前の経営者から買い取った】

 

 『大黒湯』の脱衣場の天井は見もので、『折り上げ格天井』といって梁から曲面を持って天井まで立ち上がり、格子状になった枡目には一枚ごとに違った花鳥風月が描かれていて、詳しくは覚えていないが、こういった天井画は解体時に捨てられてしまうのか心配である。

 

 正面にあった唐破風は近くにある寺に移築されたというニュースもあったが、廃業後は駐車場かマンションでも建てられるのだろうが、そういえば『大黒湯』の少し先はかつて都電の通っていた国道4号線に出るが、一時は寂れた沿道は交通至便な千住ということでマンションが林立し隔世の感がある。

 

【写真−3 中は記憶通りに復元されているのであろうか気になる】

 

 写真−3は小金井公園内にある『江戸たてもの園』の中で、正面に見える『大黒湯』と似た建物がかつて千住元町にあった『子宝湯』を移築したもので、この風呂屋の後に経営者になる人物は小学校の同級生であったので、放課後にその2階やお湯を溜める槽の上に敷かれた分厚い板の上で遊び回った。

 

 『子宝湯』の建物は1929(昭和4)年に造られ、年代的には『大黒湯』と同じ年になり唐破風の具合など似ていて、こういった民間の建物は誰が設計して棟梁は誰であったかという記録は分からないが職人同士の融通、あるいは競争はあったのではないか。

 

 『子宝湯』で記憶しているのは脱衣所の外に池があって、そこに縁台があって涼むことが出来、池には鯉とおしどりが泳ぎ、浴場の壁には故事にちなんだタイルの武者絵などがあったと思うが、日本へ行った時に移築された『子宝湯』を訪ねてどうであったか記憶を探りたいと思っている。

 

【写真−4 レトロ趣味で持ち上げても風呂屋経営には寄与しない】

 

 今はなくなった『子宝湯』から荒川放水路の土手方面へ行くと土手近くに写真−4の『宝湯』があり、『宝湯』の建物は1938(昭和13)年に造られ、先述した『大黒湯』と『子宝湯』とは9年ほど後になり、正面の破風は瓦葺となっているのが大きな違いである。

 

 『宝湯』は『子宝湯』と同じ千住元町にあり、後述する『金の湯』と『ニコニコ湯』は柳町にあり、柳町にはその昔『赤線』があり、売春防止法が1958(昭和33)年に施行されるまで営業していて、荒川放水路へ行く時はその街区を突っ切って行ったが、こども心にも何となく怪しい雰囲気を感じた。

 

【写真−5 金の湯の女将は大黒湯と縁戚らしいとのこと】

 

 写真−3は『金の湯』で、写真を撮った側は『ニコニコ商店会』という細い商店街があって、道はかつての都電の終点『千住4丁目』に出るのでかなり賑わった通りであるが今は寂れた通りになっていて、『金の湯』の入り口両脇は威勢の良い八百屋があったと記憶する。

 

 『金の湯』の外観は今風だが創業は1936(昭和11)年と『宝湯』より古く、家から『宝湯』よりは近かったがあまり入ったことはなく、そういえばニコニコ商店街を大正道路まで行くと角にやはり大きな風呂屋が在ったのを思い出したが、当時記憶にある近所の風呂屋は8軒以上あって、それを気分によって入りに行ったから今思えば贅沢ともいえる時代であった。

 

【写真−6 右隣のビルの以前は豆腐屋が商売をしていた】

 

 家から一番近かったのが写真−6の『ニコニコ湯』で、小学校の同級生の家で裏のおが屑を溜めた所で遊んで埋まって怒られたり、風呂屋商売というのは儲かる時代で2階に在ったテレビを見に通ったが、まだ日本テレビなどテストパターンの時間のある時代であった。

 

 テレビといえばこどもの頃は力道山のプロレス中継が全盛で、プロレスのある日は番台の後ろに鎮座したテレビを観るために風呂屋へ行くようなもので、プロレス中継が終わって風呂など入る人など少なく、弊害があったのかテレビはやがて番台から姿を消した。

 

 『ニコニコ湯』の創業は戦後の1952(昭和27)年でかなり新しいが、新規に風呂屋を開業しても商売になる時代で、浴場や湯舟はこどもの遊び場となり、小生など木で造ったゴム動力の潜水艦や電池で進む軍艦などを浮かべて遊んだが大人も鷹揚な時代であった。

 

 大人といえば下町は職人が多く、そういった人が風呂に入りに来ると見事な倶利伽羅紋々、刺青を見せこども心にも凄いなと思って絵柄に見とれたが、今のように職人もヤクザも一緒くたにして刺青の人はお断りという時代ではなかった。

 

 こうして千住には駅向こうを除いて『宝湯』、『金の湯』、『ニコニコ湯』の3軒しか残っていないが、昔と違ってアパートでも一軒家でも内湯を当たり前に備える時代だから、風呂屋経営は厳しいと思うが、風呂屋は風呂屋の良さがあるから続けて欲しいものである。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情 遠ざかる昭和の想い出, 20:38
-, -, pookmark
東京慕情 その(33) 子ども篇−1 下町っ子の夏休みの過ごし方

 地球温暖化への警告は以前より成されているが、昨今の日本は温暖化どころか熱帯化しているのではないか思える35度前後の気温が当たり前になっていて、30度を超えたら大騒ぎしたような子どもの頃とは明らかに違っている。

 

【写真−1 赤い塔の右側にはかつてお化け煙突と呼んでいた煙突が見えた】

 

 さすがに世界はこのままでは地球が危ないと見て対策を打ち出し、温暖化対策は新たなる儲かる案件と目を付けた財界、企業主導であり、それを『SGDs』などとオブラートに包んでやっている感を出しているに過ぎない。

 

 以前は核の使用で人類滅亡何分前と警告は出ていたが、今はそれに代わって人類が好き勝手にやって地球を痛めつけたために自然のサイクルが狂い滅亡が始まっていると考えてもおかしくはない。

 

気温分類用語に最高気温が35度を超えると『猛暑日』、その下に30度以上を『真夏日』、25度を超えると『夏日』というのがあって、それから考えると子供の頃の夏は『夏日』と『真夏日』を行ったり来たりしたような具合で、それを思うと過ごし易かった。

 

 それが東京では35度を超え40度近くにもなる『猛暑日』が続いて、過去の記録を塗り替えるなど辛い夏になっているが、一方で大雨によって河川の氾濫が各地であり、いったい日本の気候はどうなってしまったのかと思わざるを得ない。

 

 その日本の夏休みの思い出を書き綴るが、写真−1は1992(平成4)年に近くの小学校と統合して廃校になった小生の卒業した小学校で、現在は災害に備えて更地にされ公園化されているが、夏休みにはこの校庭で『ラジオ体操』が行われていた。

 

【写真−2 こどもの頃の校庭は都心以外は土剥き出しが普通であった】

 

 写真−2では演台に指導者が上がってその前に子ども達が列を作って体操をしているが、何年生の時か忘れたが、今は廃止された当時の文部省や朝日新聞、教育委員会が学業優秀、運動能力の優れた小学6年生を対象に選ぶ『健康優良児』に入賞した上級生がこの演台に上がって真面目な顔で体操をしていたのを覚えている。

 

 ラジオ体操と名付けているようにNHKは戦前から毎朝6時にラジオで全国放送しているが、そういえばNHKが全国に巡回体操をしていて、何年生の夏休みであったか覚えていないが荒川放水路のグラウンドで巡回放送を行ったことがあり、喜んで行ったのか動員されて行ったのか判別しないが、グラウンドは区内の小学生と大人達で埋め尽くされた。

 

【写真−3 スタンプが押されている日は少なかった】

 

 東京の夏休みは7月20日から8月31日までと決まっていて、一学期の終業日に通信簿や宿題と共に渡されるのが写真−3の『ラジオ体操出席カード』で、写真−3のような立派な印刷物ではなく、先生が謄写版で刷りあげて作ったカードであった記憶があり、それをボール紙に張って紐を通して首から下げた。

 

 夏休みの始まった当初は出席のスタンプをもらいたくて『毎日出席するぞ』と意気込むが、やはり早朝6時前に起きるのは大変となって、一週間か10日も続けば良い方で、後はズルズル行ったり行かなかったりとなる。

 

 これは小生に限らず、皆勤しスタンプで真っ赤に埋まったのを自慢する子も居たが、今思うと夏休み中泊りがけでどこへも行かなかったのか行けなかった商店や母子家庭の子で、そう思うとラジオ体操出席にも家庭環境、貧富の差が微妙にあったようだ。

 

【写真−4 未舗装時代のマンホールは木製で大雨が降ると浮いた】

 

 夏休みと冬休みの長期休み中には『道路清掃の日』というのがあって、区域ごとに子どもが集まって道路を掃いたりゴミを拾う日があり、写真−4のような町内の通学に使う道路清掃を行った。

 

 今は写真−4のように町内の道路はどこも完全舗装されているが、子どもの頃は舗装されているのは車が頻繁に通る広い道であって、多くの道は土そのままの道路で、その道路が子どもの遊び場でもあり、冬場になると練炭や炭団の燃えカスを捨てる場所でもあった。

 

 小生の実家宅近くにあった電柱前が清掃日に集まる場所になっていて、どのくらいの頻度で清掃日があったのか覚えていないが、ラジオ体操のない日の一週間に一回くらいあったのでは思うが、時間になると集まった子ども達でガヤガヤし、それで母親に『集まっているよ』と起こされるのが常であった。

 

【写真−5 今では寺社で使うくらいで町からは姿を消した】

 

 清掃日に各自が持参するのは写真−5の『竹箒』で、こういった箒は近所の荒物屋で売っていたし箒だけを担いで売り歩く行商の人もあって、当時はどこの家庭でも竹箒を備えていた。

 

 一応清掃範囲は決まっているが、夏の早朝時で車や人通りのない時間帯なので、この箒でかなり遠くまで遠征した覚えがあり、早起きするのは苦手であったが掃除そのものは嫌いではなかった。

 

写真−6 こういうのが昭和のアンティックとして売られているというから驚く】

 

 その時に使っていた塵取りが写真−6の形と同じで、しかも木製でこれも家庭に一つは常備していた必需品だが、夏休みの工作の宿題で端材を使い釘で打ち付けて作った塵取りを見よう見真似で作ったこともある。

 

 今のゴミの主流はプラスティックの製品だが、子どもの頃は道路に落ちているのは紙屑が多く、これを専門に拾って生業とする人が背中に竹の籠を背負って町中を歩いていて、子どもも大人も侮蔑から『屑拾い』と呼んでいた。

 

 今思うと金属類も回収していたようで、そういえば紐にラジオから取った磁石を付けて道路の上を転がし古釘などを集めていた同級生も居て、回収業者に持って行くと駄菓子を買うくらいのお金になった。

 

 ゴミの話といえば、当時の下町の家庭ゴミの回収というのはどうやっていたのか良く覚えていないが、家々の前に木で出来たゴミ箱というのがあってそこへ出しそれを定期的に回収していたようだが、自動車になって回収するのはもっと後の時代で、人力で回収していたのだろうか。

 

 このゴミ箱は木製なのでタバコの火を投げ入れられて出火し火事になることが多く、小学何年生であったか春先に近所で火事があり、その原因はゴミ箱からの出火であって、その後木製のゴミ箱はコンクリート製に替えられ、木製のゴミ箱というのは姿を消した。

 

 ゴミの出し方、ゴミの処理の仕方でその国の民度と国力が分かるといい、日本のように万事スマートになった国はまだ少なく、このフィリピンのように何でもかんでもゴミとして捨てて、その捨てられたゴミを回収するのを生業とする『スカベンジャー』と称する集団がいる国は世界ではまだ多い。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情 遠ざかる昭和の想い出, 18:58
-, -, pookmark
東京慕情 その(32) 食べ物篇−1 駄菓子屋で寒くなる時期と暑い時期に食べた物

 2019年11月に『新幹線全線乗車の旅』をした時に、最初に都内で泊まったホテルは山手線日暮里駅東口にあり、日暮里という駅は地下鉄千代田線の交わる西日暮里駅が出来るまでは常磐線から山手線への乗り換えで使い、成田空港が開港してからは京成線に乗るために煩雑に利用した。

 

【写真−1 さすがに今はボッタなど食べたいとは思わない】

 

 そういう乗換駅だが駅の谷中口側は何度も降りながら、反対側の東口側に出るということはほとんどなく、駅前は再開発されて大きなビルが建ち、ここからかつて交通難所地域であった足立区の北西部に『舎人ライナー』という新線が通じ、2019年にこの東口に降りた時はその変わりように驚いた。

 

 日暮里にはかつて駄菓子屋用の品物を扱う問屋が100軒近くも商売をしていた時代があり駄菓子屋の町と知られていたが、今は駅前の高層ビル内に店を構える1軒のみしか残っていなくて、現在の日暮里は布地を扱う店が集中し布地の町として有名になり、海外からも買いに来る人もいる。

 

 駄菓子屋へ品物を卸す問屋が消えると同時に駄菓子屋も町から消えて行ったが、小生などは駄菓子屋文化で育ったような世代だから、5円や10円の硬貨を握って買った駄菓子屋の1円の飴とか2円の煎餅などなど色々あるが、ここではその駄菓子屋が季節になると売り出す食べ物について記したい。

 

 実家のあった通りの先にいつも行く駄菓子屋があって、怖い顔の婆さんが子ども相手に商売をしていて、子ども達の間では『***の婆あ』と呼んでいたが、今思うと旦那の顔を見た覚えがなく、先年亡くなった話を聞いて享年を逆算してみると婆あといわれるほど当時の年齢は食っていなかった。

 

 秋から冬、春にかけて駄菓子屋の奥まった部屋で食べたのが写真−1の『ボッタ』で、今は『もんじゃ焼き』などと気取った名前が付けられ、隅田川沿いの月島には店が並んで昭和レトロの宣伝に乗って商売をしているらしいが、下町の子どもはボッタと呼んでいた。

 

 味噌汁のように薄く小麦粉を溶いて醤油を入れ、その中に刻んだキャベツを少々、青海苔も少々散らしたのがボッタで、粘着性はなく鉄板に滴のようにボタッと落ちるのがボッタの語源らしいが、今のもんじゃ焼きなどはあれは気取ったお好み焼きだと貶す人もいる。

 

 写真は適当なのは見つからなかったが、熱した鉄板に流して小さな金属のヘラで端から上下にこねながら頃合いを見て口に運ぶが、いわば糊状になった食べ物でこれが子どもには美味く感じ癖になった。

 

 終わり頃には焼け残りが薄く煎餅状態になってこれを大きな鉄製のヘラで剥がして食べるのもまた楽しみで、今思えば一人で食べるということはなく仲の良い友達とワイワイいいながら食べ、ついでに漫画を持ち込んで回し読みしていたから当時のコミュニケーションの場でもあった。

 

 このボッタを食べられる店は他にもあってその近くに住む友人と会ってボッタを食べながら時間を過ごし、当時は熱源にガスではなく練炭を使い茣蓙を敷いた板の間に座って食べたから、ボッタというのは下町の生活風俗を伝えた貴重な存在でもあった。

 

 ただし、母親からは汚いからボッタに行ってはいけないといわれたが、行ってはいけないといわれると余計行きたくなるのが子どもで、家にあった玉子を持ち出してボッタに混ぜて食べるのも楽しみで贅沢な時代でもあった。

 

【写真−2 当時のグラス容器はそれなりに今は価値が出ている】

 

 先述した『***の婆あ』の店は奥に細長い店で、夏になると正面右の一角にガリガリと氷を削る手回しの削り器が据え付けられ、店先にかき氷の旗が出て『かき氷』を売り出す。

 

 当時一杯いくらであったか覚えていないが、こども向けだから20円くらいであったと思うが、かき氷の上にかけるシロップはイチゴ、メロン、レモン、そして透明なスイと呼んでいた4種類で、今のようにゴテゴテと具を飾るかき氷と違って極めてシンプルであった。

 

 写真−2はイチゴ味だが、当時のかき氷にかけるシロップは合成着色料がきついのか食べ終わった後は唇や舌の表面がシロップの色に染まり、やはり母親からは身体に悪いから食べてはいけないときつくいわれたが、ボッタ同様そんなことに従う子どもではなかった。

 

 削り器に乗せた氷が薄くなり止める爪スレスレになると外して新しい氷と交換するが、その薄くなった氷をもらい口に頬張って食べるのも楽しみで、今思うと昔の子どもはこういった生ものに強く、今のようにCMに踊らされて抗菌だ消臭だと神経質になるのは良いとはいえない時代であり、抵抗力のない子どもが増えるばかりである。

 

 当時の氷は『氷屋』という専門店が町内にあり、まだ冷蔵庫は木製で氷を入れて冷やす機種が普通で、そのために時々籠を持って氷を買いに行かせられ、単位は一貫目で本当に重さで1貫目あったかどうか分からないが、店先で店主がシャキシャキと氷を切り最後にトンと切り離す姿には憧れた。

 

 そういえば夏は氷を売って寒くなると炭や練炭を売る店もあって、小生の実家には掘り炬燵があって熱源は炭を使っていたが、その中に猫と一緒に潜り込んだのも子ども時代の幸せな時間であり、今の床に直置きの電気炬燵と違って掘り炬燵は座る姿勢も無理がないから最初の電気炬燵は掘り炬燵用の製品であった。

 

【写真−3 寒天をこのように食べるのは日本の味とつくづく思う】

 

 かき氷と同じ時期に売るのが写真−3の『トコロテン』で、かき氷にするかトコロテンにするか迷った記憶もあるが、写真のように練り辛子を入れて食べるのは大人の好みで、子どもは辛子を使わなかった。

 

 しかし、町内を回っている屋台の『おでん』を食べる時は、たっぷり練り辛子を付けて食べたから辛子が嫌いという訳ではなく、酢醤油に辛子を絡ませて食べるトコロテンには子どもの口に合わなかっただけで、大人になればトコロテンには練り辛子は当たり前になる。

 

 屋台のおでんが出たついでに書くと、一品10円くらいだと思ったが関東式の黒い汁に昆布やハンペン、竹輪などの練り物が泳いでいて竹串に刺してもらって食べたが、一番好きであったのは昆布で、これは今もおでんを食べる時は変わらない。

 

 屋台といえば『やきとん屋』というのもあって、時々路上で見かけて食べたが、これはレバーなどのモツを串に刺して焼いた物を売っていたが、子ども向けなのかかなり甘いタレの味であり、今はモツなど食べたいと思わないが子どもの時は知らずに食べていた。

 

 さて、トコロテンだが、『***の婆あ』が木製の押し出し機に細いトコロテンを入れて手際良く押し出しガラス器に盛る様子など何度見ても気持ちの良いもので、一度頼んでやらしてもらったが、ただ押せば出て来るものではなく思う程簡単でないことも分かった。

 

 トコロテンが海の海藻である『テングサ』から作っているとは子どもの頃は知らなかったが、大晦日になると母親が棒状の干し寒天を千切って水に浸し、お節用の料理を作っていたことを思い出す。

 

 料理名は何というのか覚えていないが、溶かした寒天の中に缶詰のミカンを散らしていて、透明な中にミカンのオレンジ色が映えてしかも味は甘く、煮しめだとかなます、黒豆といった伝統的なお節料理ばかりでは子どもが可哀想と作っていたのかも知れない。

 

 大人になって海辺の民宿に泊まって出された自家製のトコロテンは磯の香りが強く、しかも腰があって子どもの頃のトコロテンはずいぶん水ぽかったなのだなと思ったが、その安っぽさが子どもにはまた良かったのではないかと思っている。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情 遠ざかる昭和の想い出, 19:00
-, -, pookmark