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この一枚2017年 セブ篇 その(14) 2017年のクリスマス

 熊を模った黄色いプラスティック製の貯金箱があり、買い物などで残った釣銭を1年間入れるようにしていて、毎年12月半ば頃に中味を開けるのが年末の我が家の行事で、先日開けてみた。



 5ペソと10ペソの硬貨を主に入れているが、この他各種紙幣も入っていて、一番高額なのは1000ペソ紙幣。1ペソが2.2円くらいなので、日本円感覚では2000円少々という感じだが、フィリピンの1日当たりの最低賃金2日分に近く、価値は高い。

 フィリピンに流通する紙幣は1000、500、200、100、50、20ペソがあり、200ペソという単位は使い難いのかあまり流通していず、これは日本でも2000円札があまり使われないのと共通している。

 去年の場合は、その明細は本HPで書いていると思うが、いくらの額になったかは忘れたし、調べるのも面倒くさい。今回、硬貨と紙幣の枚数など記録をし総額も計算していたが、そのメモもどこかへ行ってしまったが、家人によるとその額は3万3000ペソ近くあり、去年より少し多いという。

 今年の特徴は500ペソの多かった去年と比べて1000ペソの方が多く、これはフィリピンのインフレが続き、ペソが安くなった証拠で、これはまた暮らし難くなった証しかも知れない。

 こうして1年間貯めた中から、3分の1を施設に寄付するようにしているが、去年はセブにあるマザー・テレサの施設を訪れた。セブにマザー・テレサの施設があるのも初めて知ったが、場所はセブの海沿いの魚市場近くのいかにもフィリピン的な人も建物も密集する場所にあった。

 その施設は乳児を預かっていたから、いわゆる乳児施設になるのであろうが、インドネシアから来た信者達が数人活動していた。インドネシアはイスラム信者数が世界最大の国で、キリスト信者とは珍しいなと思った。

 この信者達はアジアで一番新しい独立国『東チモール』近くの島からセブへ来ていて、あの辺りはカトリックの布教が盛んで、東チモールがインドネシアから独立を求め、内戦状態になったのも宗教的事情があったと分かる。

 さて、今年はどこに寄付するかという話になって、去年は子どもの施設であったから今年は老人施設にするかとなった。その内、半分半分にして2ヶ所に寄付することにして、家人が知人から聞いた『ORPHANAGE』と老人ホームを選んだ。

 最初ORPHANAGEといわれて分からなかったが、これは『孤児院』のことで、セブの山の中にあるという。写真はその施設の入り口で、ビックリするような山道を登ってここまでたどり着く。

 この施設のある場所へは車の轍分だけコンクリートが打たれた狭い道を登って行くが、山奥とはいっても途中の主要道の先には住宅が開発され、10数年前にはインターナショナル・スクールが移転していて、決して不便な場所ではない。

 それにしても、乾季の今の乾いている時だから道も走れるが、雨季の雨の強い時などかなり不安になる道で、どうしてこんな人里離れた場所に施設をと思ったが、ここは女性専用の施設で子どもだけではなく成人も生活している。

 ゲートに書かれている絵には『BONITA HOME FOR GIRLS』と施設名があり、ここが女性用の施設と分かり、事前に訪問を連絡してあったが、ゲートの前から電話をするも電波状態の悪い場所で、ようやく連絡が付き中に入れる。

 施設は急峻な崖際に建てられているが、施行も大変であったろうが斜面を利用した5階建てのかなり大きく立派な造り。テラスからは遥か彼方にセブのリゾートと知られるマクタン島のホテルなどが眼に入り、向こうからもこちらが見えるであろう。

 シスターと面会し、持参の寄付金と整理した古着を手渡すが、この施設は性的虐待を受けた女性や放棄された子どもを収容していて、それで、こういった人里離れた場所に造られたと理解する。

 現在はクリスマス休暇中で、80人ほどいる中で親元へ帰った人もいるが施設内に残る人も大勢いるという。ここの生活は普段は下の普通の学校まで通って学び、カレッジを卒業した人の写真がたくさん飾ってあったことで、逆境にめげずに学問を収めたことに感心する。

 先ほど孤児院と書いたが、フィリピンはいわゆる物乞いの多い国で、アセアン内で経済成長率を誇っているがその富は下に降りて来ないのは日本と同様で、小生が初めてフィリピンと関わった30数年前とその貧しさはほとんど変わっていない。

 特に、日本だとホームレス=成人だが、フィリピンは親子でホームレスというのは珍しくなく、セブのダウン・タウンに行くとかなりの数を見かけるし、中には子どものホームレスではないかというのもある。

 社会的な保障の薄いフィリピンではこのような宗教団体がそういった弱者を救済するのが主流となっていて、それを支えるのが我々のような貧者の一灯ということになる。

 中を案内されて一番印象的であったのは、50キロ入りの米が毎日1袋消費されるということで、貧しかろうが豊かであろうが食べるということは最重要と当たり前のことを考えた。

 そこを後にして次に行ったのが老人ホームで、こちらは事前に連絡していなかったが先の施設の麓近くにあり、そこも塀に囲まれていたが建物は立派で、エレベーターまで備えてあったが、どの窓にも鉄製の泥棒避けの鉄の柵があったのが気になった。

 老人を大切にするフィリピンでもやはり老人ホームは必要で、訪ねた老人ホームは有料と無料の人を収容していたが、やはり運営母体は宗教団体でシスターから話を伺う。

 老人ホームなのでユニホームを着た介護職員が働いているが、介護士は看護師と同様、かなりの数のフィリピン人が海外で働いていて、日本もフィリピン、ヴェトナム、インドネシアから看護師、介護士を一定数受け入れているが、定住するのは少ないし、せっかく日本の資格を取っても帰国してしまう人も少なくない。

 

 セブで日本人対象の老人ホームを作るといって日本人が動いていたのを聞いたことがあるが、その多くはフィリピンの低コストを考えた事業であって、人命を預かる施設は余程の基盤がないと上手く行かないと思ったが、その後どうなっただろうか。

 

 そういったフィリピンの低コストを求めて、以前から日本の障碍者や老人がフィリピンに移り住む動きがあって、これは日本では生活できなくなった面が強く、日本の貧しさを表しているのは確かである。


 

author:cebushima, category:この一枚 2017 セブ篇, 17:54
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この一枚2017年 セブ篇 その(13) ホテルのプールから

 この12月一杯でセブにあるマリオット・ホテルが20年の営業を終えるが、先日このホテルへ泊まった。

【フィリピンの金持ちはこれ以上のプールを持っている】

 マリオットは渋滞でなければ自宅から車で20分もあれば行けるショッピング・モールの一角にあるが、2泊3日のホテル暮らしは都市型ホテルとあって、寝る場所を変えただけで特にどうという感じはなかった。

 写真は同ホテルにあるプールで、竹の生け垣で隠した向こう側にはモールやコンドミニアムが隣接し、場所的には少し高級なビジネス・ホテルといった感じで、マリオットが手を引いた後にはモールを運営する会社が別名で運営するという。

 時々、このホテルのプール横を通ってずいぶん貧弱な設備と思うものの、敷地が狭いからこの程度のプールしか作れないし、わざわざこんなプールを使う人が居るのかと思っていたが、写真を見て分かるようにプール・サイドで寝そべる白人が2人見える。

 こんな所でと思い珍しい光景だなと思ったが、週末とあってか午後になったら子どもが10人以上泳いでいた。それでもこの程度の大きさだから水浴び程度といって良いだろう。

 ホテルにプールは付きものだが、この手のプールで泳ぐのは野暮というもので、こういうプールは涼しさを感じさせる装置で、池と同じの水面を渡る風を眺めてその雰囲気を感じる物と思った方が良い。

 せいぜいプール・サイドの木陰で昼寝をする程度の存在と思った方が良く、先年、ラオス・ヴィエンチャンのホテルにしばらく滞在した時は、プール・サイドで本を読む時間に心安らぎ、ここぞとばかりに泳ぐのは田舎者か見せびらかしたい手合いといって良い。

 とプールのことを書いているが、小学生の頃、今でこそ小学校にプールがあるのは当たり前だが、その当時、小学校でプールのある学校は区内にいくつもなく、出身校の校庭にプールが出来たのはこちらが成人した後だった。

 小学校にプ−ルのない時代だから、夏になると荒川放水路近くの実家から歩いて7〜8分先にある『大川町公園』へ行き、そこには区営のプールがあって近所の仲間を誘って泳ぎに行った。

 入れ替え制になっていて入場するまで何時間も並んだが、それが普通の時代で文字通りプールは芋洗い状態になるが水に浸っているだけでも楽しかった。この公園のプールは後年まだあるのかと見に行ったことがあるが、既にプールなど珍しくない時代で取り壊されていた。

 この公園のすぐ傍に放水路の土手があって、日光街道に架かる千住新橋の袂に貸しボート屋がありその辺りの水面で泳いだが、既に東京は自然の川で泳げる時代ではなくなっていて、放水路で泳いだ最後の世代になるかも知れない。

 中学生になって通った文京区の学校もプールはなかったが、泳ぎは自然に覚えて高校の授業では黒い帽子の1級であったが、その時同級生に以外に泳げない奴がいるなと思った。

 趣味というほどではないが、千駄ヶ谷にある東京都体育館のプールでは良く泳いだし、代々木のオリンピック・プールでも時々泳いでいた。といっても身体を水に浮かしてユラユラと漂うような泳ぎ方で、力任せに泳がなかったが、25mプールで潜水して途中息継ぎなしで往復出来た。

 そのくらい泳ぐのは好きであったが、後年、ヨットを趣味とするようになってプールどころか水に入ることをほとんどしなくなった。これは水に入ると身体を消耗することもあったが、泳ぐよりは水上を風と共に走るヨットの方に魅力があるためと思う。

 ヨット乗りはただでさえ飛沫で身体を濡らすので水に入ることは好まず、案外と金槌も多いが、それでも、クルーザーの長距離レース前に潜って船底の掃除をする時があり、これは結構水の冷たい秋口でも潜って船底掃除をしたことがあり、懐かしいといえば懐かしい。

 泳ぐことはほとんどしなくなったが、セブに住むようになって『ダイヴィング』を始めた。これは当時勤めていた会社がダイヴィング船を持ち、毎週潜っていて誘われたことから始まった。

 始めたのは20数年以上前になるが、当時はまだ今ほどダイヴィング・ショップなどは少なく、マクタン島の近場で潜れたが、機材などはわざわざマニラまで行って手に入れていた時代であった。

 ダイヴィングは家人と一緒に始めたが仕事の都合で日本、中国と移り住んだために自然とダイヴィングとは縁が遠くなった。それでも、中国に住んだ時はわざわざダイヴィング機材を香港経由で持って行ったが、結局一度も潜るチャンスはなかった。

 それら機材一式は、日本で家人と共にあつらえたウェット・スーツ以下いつの間にか埃にまみれて仕舞い込んでいるが、先年、日本から来た知人と一緒にセブ島の西海岸で潜った時はOリングの耐久性が過ぎていて途中で止めたことがあった。

 

 それからはもう自前の機材は使わず、体験ダイヴィングとやらでお茶を濁してマクタン沖を潜ったが、かつてとは違ってかなり透明度は落ちていて、あれだけ海岸沿いに宿泊設備が出来、人口が増えて生活排水が流れ込む状態では当然といえば当然。

 

 海外からの観光客がそのマクタンの海に潜って、綺麗で感動などといっているのはちょっと悲しい感じもするが、セブでダイヴィングをしたのが自慢、売りになるようだからそれも仕方がない。

 汚れる一方の海と思ったら、人工的なプールで過ごした方が良いだろうが、プールで泳ぐ半分以上の人は男女を問わず中で小便をしているという話もあるから、見かけほど綺麗ではないのも事実。


 

author:cebushima, category:この一枚 2017 セブ篇, 19:06
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この一枚2017年 セブ篇 その(11) 万聖節の墓石のお化粧

 11月1日はカトリックの聖人と殉教者を祝福する日で、翌2日は死者を悼む日となり、この期間を『万聖節』と呼んでいる。ただし、あくまでもカトリックの行事であって、プロテストタントなど他のキリスト教宗派は意味合いと呼び方は違っている。


【人口爆発のフィリピンだから墓地分譲というのはかなり伸びている】
 

 近年日本ではこの時期を『ハロウィン』などと呼んで、ミーハーな連中が仮装して街へ出るのが流行らしいが、日本の場合はクリスマスと同じで商業主義に踊らされた連中のお遊びであって宗教的な面は全くなく、フィリピンでは大人が仮装するなどほとんどなく、あってもそれこそイカレタ奴らのみ。

 これは、国民の80%以上がカトリック宗徒のフィリピンでは、まだまだこの日は大切な宗教的行事となっているためで、この万聖節は4月の『聖週間』と並んで、宗教的儀式が前面に出ていて、子どもは別にしてもおふざけはご法度になっている。

 フィリピンの人口は1億人を優に超えているからカトリック信者数が8000万人以上になる勘定になり、アジアでは最大、世界でも有数のカトリックが布教している国であることは、この数字からでも明らかである。

 

 ただし、フィリピンは16世紀にカトリックが布教されるまでは『イスラム教国』であって、カトリックがフィリピン全土に普及しても、南部のミンダナオ島はイスラム教の影響が根強く残っていて、むしろ彼の地では多数派を形成している。

 

 最近でも、ミンダナオ島北部にある南ラナオ州の州都マラウィ市でイスラム武闘派と政府軍の長期に渡る市街戦となったが、フィリピン国軍やアメリカ、中国、ロシア、オーストラリアなどからの軍事作戦協力があっても、なかなか一掃できなかった。

 これは紛争地域に強固なイスラム教と地縁、血縁のネットワークがあったためで、マラウイ市では戦闘終息宣言が出たとはいうものの、戦闘員を地下に潜らせてしまったといっても過言ではなく、そのくらいミンダナオ島ではイスラム教は強い。

 カトリックが80%超えている中、フィリピンのイスラム教徒は8%〜9%は居るとの話だから人口にして1000万人近くは居るわけで、少数派とはいえない数だし、キリスト教徒がミンダナオ島開拓で入って来たのが、現在に繋がるミンダナオ島紛争のきっかけだと指摘する声もある。

 

 そのフィリピンのイスラム教、長い間、信者は隠れたような存在であり、以前は見なかったイスラム特有のスカーフ『ヒジャブ』を被った女性が近年ではモールや街中で珍しくなく、世間的には違和感なく認知され、それだけフィリピンに浸透している証拠にもなる。

 

 実際、イスラム教の最大行事である『ラマダン』の時は、フィリピン政府も開始日と終了日を国の休日にしているくらいで、政府側にもイスラム信徒への理解が深まったともいえるが、端にイスラム教徒への迎合、懐柔と見られる向きもある。

 

 さて、写真は11月1日にセブ近郊の公園墓地へ行った時の一枚で、作業員が埋め込まれた墓石を掃除し、表面に掘られた字にペイントを塗っているが、この日はこの手の作業をする人の掻き入れ時で、各所で作業をしていた。

 

 作業のやり方を見ていると、墓石の表面を濡らしてサンドペーパーで磨き、その後乾いた布で拭って乾かし、彫ってある字に黒ペイントで描いて行くが、ペンが独特な自作物で、細いノズルからペイントが出るようになっていて、これなら筆と違ってペイントがはみ出ることはない。

 

 そうやって、作業すること30分くらいで終わって、依頼者から150ペソ(330円)をもらって次の墓石に移って行ったが、一つ一つの値段は安くても数をこなせば一日でかなりの収入になるのは確かで、ちなみにセブ地域の一日の最低賃金は500ペソに満たない。

 

 この他、墓地内では墓所をセールスする人、また宗教関係者が封筒を差し出して寄付を募るのが目立ち、アイスクリーム売りやおもちゃ売りも目にした。勿論、墓地の外れではファーストフードの各種売店が出ていて、小生もビザを2枚も買ったから縁日気分もあった。

 

 この日、割合早めに墓地へ行ったが、既に墓地内は駐車する場所が難しくなり、辛うじて遠方に停められた。フィリピンも車時代になって年々、駐車が困難になって来ているのは確かで、今年などは墓地の外の幹線道路沿いまでも駐車する車がギッシリで驚いた。

 

 そうやって、夜まで故人を埋葬した上で食事をしたりして時間を過ごすが、墓地の方も年々埋葬する人が多くなり、今まで空いていた場所に次々と新しい墓石が埋められていた。その墓石の生年と没年を見ると、結構若くして亡くなっている人が多く、フィリピンの平均寿命が短いことを実感する。

 

 頃合いを見て家に帰るが、案の定ダブル・パーキングされて車が出せない。通りかかった警備員に車の持ち主を探させて、運良く近くにいたためやってきたが、遠くにいたら埒が明かないのも確か。やって来た女性、人の迷惑など考えないのがフィリピン流だから、悪びれずことなく車を動かし始める。

 

 ところが運転の下手な女性で、縦列の中から車を出せず、スッタモンダしていてもこちらは『そちらの責任』と見て余計な口を出さず見て見ぬ振りした。しかし相手の車が前のバンパーに接触したなと思ったが、言い出すとまた面倒なのでそのままにして、家に帰ってその場所を見たらやはりこすった跡があった。

 

 この日、こういうダブル・パーキングは当たり前になってしまっていて、車を出せなくて困った人間もあっただろうし、中にはトラブルになって激高し、こちら流のダッシュボードからピストルを出して撃ち合うなどの事件もあるのではないかと思うが、さすが墓地ではそういうことはないようだ。

 

 日本で車による運転挑発が問題になっているが、フィリピンの場合、やった者方勝ちで、そういう土壌があってか、迷惑行為など何とも思っていない。これは、相手側だけではなく当の自分も同じことを平気でやることから来ているもので、お互い様ということである意味暴発しないのであろうか。


 

author:cebushima, category:この一枚 2017 セブ篇, 18:52
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