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ミンダナオ島紀行 南部篇 その(20) ゼネラル・サントス飛行場から一路セブへ (最終回) 

【写真−1 この籠は下部に台を持つが、無い方が良い】

 

 写真−1はセブ湖のホテル近くの道筋で買った籠で、直径40センチ、高さは70センチある。セブ湖では竹を多用した住居も多く、面白い籠はあるかと思ったが案外と期待外れ。

 写真の籠がマアマア形も良く、丁寧に編み込んでいて買ったが、値段は1000円もしない。この他にもいくつか小さな籠を買って、この大きな籠に詰め込んで空港でチェック・イン。

 こういった大きな品物はそのままの状態で出した方が良く、なまじ包装や箱に入れて見えないようにすると、扱いがぞんざいになり潰されたりするから要注意。この手でもっと大きな籠を過去に何度もチェック・インしていて何れも問題はなかった。

 ゼネラル・サントス飛行場はこれといって特徴はないが、市内からトライシクルで空港へ行った所、空港入り口のゲート前で『トライシクルはここまで』と降ろされた。

 ところがそこにはおんぼろの車が待機していて、この車に乗り換えてターミナル・ビルへ行くようになっている。といってターミナル・ビルはほんの少し先で荷物が無ければ歩いて行ける距離だが、砂漠のような乾いた暑さは変わらず。その車に乗り換え。

 いつものように遅れて飛行機は飛び、飛行場上空で円を描くように上昇。これは飛行場先に小高い台地が広がっていて、真っ直ぐ飛ぶと高度が稼げないためと思うが、おかげでゼネラル・サントス市の区画された新市街と湾の状態が良く見えた。

【写真−2 こうやって見ると山が迫っていたのが分かる】

 

 真っ直ぐ飛行機はセブへ向かってミンダナオ島内陸を飛ぶが、やがて見えた写真−2の海岸線。この時はどこだろうかと目を凝らしたが良く分からなかった。後で調べると湾に広がる街は『カガヤン・デ・オロ市』であった。

 ここには30年以上前に1年近く仕事で住んでいたことがあり、思い出の多い街になる。今の人口は60万人を超えるミンダナオ島北部有数の街になっているが、私がいた頃も大きな街であったが、人口は今の半分くらいで、フィリピンの地方都市の特徴が良く出ていた街であった。

 今は武力衝突などはないが、私のいた頃は、政府軍と反政府軍が争っていて、銃撃事件なども多発していて、レストランから出た後にそこが襲われた事もあったが、私自身は至極呑気に過ごし、これがその後のフィリピンとの繋がりの初めとはその時は思わなかった。

 この湾を過ぎてやがて右手側に高い山を抱えた島が見えた。これは『カミギン島』で何度か行っているが、最後に行った時は家人と中央の火山『ヒボヒボ』へ登山したが、標高1332mとそれ程高くないのに、頂上は高山植物のような群落があり、眺めは抜群。

 この時、土地の子どもにガイドを頼んだが、彼らはゴムぞうりで簡単に頂上を目指し、こちらは結構大変だったのを思い出す。そのヒボヒボの全体像を見下ろしながら飛行機はセブへ。

【写真−3 いわゆるセブのリゾートは上方、左側に連なる】

 写真−3はセブ・マクタン空港へ着陸態勢に入った状態の一枚で、右下に突き出ている施設はフィリピン料理を出す有名な店。着陸する飛行機はこの店の真上を飛び、その眺めもまた一興。

 写真の中ほどに白茶けた道が見えるが、これは新しいリゾートを作っているようだ。この辺り、岩場で使いようのない土地だが、マクタン島のリゾートを開発しようとするとこういった地域しかなく、しかもこの辺り泥質の海岸で澄んだ海には程遠い。それでも何も知らない観光客にはセブのリゾートで売り込むのであろうか。

 この一帯は現在のマクタン・セブ国際空港がいずれ飽和状態になるのを見越して、新空港の計画が起きていて、この辺りを埋め立てて新空港を造る構想が持ち上がっている。

 既にハイエナのような土地業者は辺り一帯を食い荒らしていて、そうは簡単に造れないだろうが、大規模埋め立てに関してはセブは過去にいくつも行っているから、また日本のODAを引っかけて新空港を造るかも知れない。こうして、ミンダナオ島南部への旅は終わった。

【了】

 


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 南部篇, 20:52
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ミンダナオ島紀行 南部篇 その(19) 市内の市場を覗いてから空港へ

【写真−1 小奇麗なスーパーも良いが、やはりこういった市場の方が面白い】

 

 漁港のマグロ水揚げ作業を見てから市内に急いで戻り、ホテルで帰り支度。少し時間があったのでホテルそばにある市場へ行く。写真−1は市場内の様子で、人口が40万人を超えるためにかなり規模は大きい。

 こういった公設市場は小さく区画された店で商売をしているが、その周りの路上で商売する人も多くて、店を張っている人と諍いにならないのかと思うが、上手く住み分けているようだ。

 この路上で商いをする人も市場の係員とおぼしき人になにがしかの金を払っているのを見かけるから、公認されているようだ。公認されないで、市場の周りの道端で茣蓙を敷いて売っているのもあって、値段は市場内、市場の周り、本当の路上順に同じような品物でも値段が安くなっている。

【写真−2 さすがにマグロの産地で、マグロの切り身の干物があった】


 時間がないので面白い物を見つけられなかったが、写真−2は魚の干物専門の店先。ただし、干物と言ってもかなり塩気が強く、多くはスープに入れてその塩味と出汁味で食すので、イワシの干物も見掛け、日本の干物を連想して焼いて食べると、口が曲がるほど塩辛い。

 小エビの干したのを買ったが、手前の小魚を勧められて産地を聞いたら『セブから』だという。セブの北部はこの手の干物生産地であり、こうやってミンダナオ島の外れまで流通しているから驚いたが『セブから来た』と言ったら苦笑していた。

 コーヒー豆は売っていないかと聞いて、奥の方でコーヒーを売っているのを見つけたが、豆ではなく既にローストして粉に挽いた物であった。相当風味は落ちるがものは試しで買って帰り、家で淹れて飲んだらとてもコーヒーとは言えない代物で、一回飲んだだけで冷蔵庫の奥に入れてあるが再び飲みたいとは思わない。

 滞在したセブ湖は標高1000mある高地で、世界のコーヒー豆の産地と同じような環境なので、本腰を入れてコーヒーを栽培すれば名品が産まれると思うが、この市場で買ったコーヒーは酷かった。たっぷりのミルクと砂糖を入れて飲めば飲めるのだろうが、ともかく細かく挽いてしまったコーヒーの粉には風味も何もない。

【写真−3 雨は降らず、赤茶けた大地が広がり、熱風が吹いている】

 写真−3は市内からトライシクルに乗って空港へ向かう途中、空港フェンス沿いで見た看板で、これは紛争の続くミンダナオ島で紛争の要因となっている貧困削減を目的とした日本のODAプロジェクトで略称が『J−Bird』で正式名称は『Japan- Bangsamoro Initiatives for Reconstraction and Development』。

 2006年の日比国交回復50周年の時に当時の安倍政権が打ち出し、以来数百億円規模の各種プロジェクトを行っている。看板の左側に表されているのはプロジェクトに乗っかって紛争地域で活動する日本NGOだが、このNGO、先年の台風ヨランダでは巨額の公的資金を使って被災地に物資を配っていたが、本当に役立っていたとは思わず、このNGOに限らず、NGOも理念とは裏腹に日本のODAの下請けに成り下がっているのが目立つ。

 ミンダナオ島の紛争地帯であるイスラム教徒に対して、日本が乗り出したのは日本は政治的に中立であるという一方的な見解で、他の国に先駆けて関わっていて、早い話が先に食いついたわけである。確かに貧困削減のためにとなると聞こえは良いが、地下資源の宝庫と言われるミンダナオ島の日本による先行投資という思惑が日本側の底流にはある。

 このイスラムに対して日本は中立という考えは、先のバングラデシュ・ダッカで日本人7人が殺された時にはっきり幻想ということが分かってしまった。この事件で被害に遭った日本人は『日本人だから撃つな』と言ったらしいが、日本人だから問答無用で殺されたのではないかと思い、既に日本人はイスラムの敵と見る勢力が存在することを認識しなければならない。

 このJ−Bird、安倍政権の時に出来たもので、アナクロの安倍が人道支援という名目でシリア難民などに支援したことが一部で反感を買っていることを思うと、皮肉な巡り合わせと思わざるを得ない。

 余計な考えだがダッカ事件の時、『中国人だから撃たないで』と言ったらどうだったであろうか。外国人全てを標的にしていたからやはり無意味かと思うし、中国もウイグル自治区のイスラム教徒を弾圧しているから逆効果かも知れない。


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 南部篇, 19:08
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ミンダナオ島紀行 南部篇 その(18) イエロー・フィンの水揚げ量でギネスの世界記録を持つ

【写真−1 多分刺身用か】

 

 市場はイエロー・フィン一色ではなく、写真−1のような魚も混じていて、この魚は『ブルー・マーリン』であった。この魚はスポーツ・トローリングで釣られるシーンでお馴染みの魚で、亜熱帯海域を遊泳している。

 写真のブルー・マーリンは頭と尻尾を切り落とされているが、これだけでも1.5メートル近くあり、大きいのは体長4メートル、重さ500キロに達するという。

 恐らくイエロー・フィン漁の中でこれが混じって獲られるのだろうが、頭を落とした切り口はトロっぽい感じがあって、鮨タネには良さそうだ。

 ちなみに名前の由来だが、この魚は死ぬ直前に鮮やかな青色になることからブルー・マーリンと名付けられ、死ぬと写真のように黒い体色になるので日本ではクロカジキと呼ばれている。

【写真−2 嘘っぽいけど本物のギネスの証明書】


 写真−2は漁港の一角に飾ってあった額で、2014年9月11日のイエロー・フィンの水揚げ量が世界一だったというギネスの証明書になる。

 これによるとその日の水揚げ量は225594.49キロで、つまりこの日25トン以上の水揚げがあった。25トンというのがどれだけのボリュームになるか想像しがたいが、一匹50キロとしても5000匹の水揚げだから、その日の漁港は大変な活況であったであろう。

 そうやって連日大漁の時が続いても、絶頂があれば後は下降するのは世の理で、現在の水揚げ量は相当落ちていて、この証明書は昔日の栄光を投げるだけで、周辺の缶詰工場や市場関係者の首切りが相当行われたらしい。

 それにしてもギネスというのは商売とはいえどうでも良い記録を残しすぎる感じはある。

【写真−3 時間帯にもよるだろうが活気は感じられない】


 写真−3は市場見学を終えて市場の入り口を出た所で、入り口の左側の建物で長靴を借り入場する。

 小一時間も見学して、再びトライシクルに乗ってホテルまで戻るが、マグロの有名な漁港ということで敷地内に持ち帰れるように切り分けられたマグロや、新鮮なマグロ料理を食べさせる店でもあるかと思ったが、そういうのは見当たらなかった。

 あるいはもう少し探せばあったのかも知れない。


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 南部篇, 20:10
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