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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(119) 12月17日は人類が初めて空を飛んだ日

 標題も正確には『人類が動力飛行機によって初めて飛んだ日』になるが、1903年12月17日、アメリカ・ノースカロライナ州キティホーク近郊にあるキルデビルヒルズにおいて、ライト兄弟が『ライトフライヤー』と名付けた複葉機によって飛行が成功した。

 人類が空を飛んだのは気球や人力などの例はライト兄弟以前にも多くあるが、今の飛行機に繋がる動力付き飛行機の初飛行はこの日が最初とされているし、史実的な認定も間違いないであろう。

 

 陸海空と三界に地球を分けると、陸の記録、海の記録、空の記録と色々あり、最大とか最小、あるいは最長だとか、それに最年少だとか最高齢を加えるとそれぞれの記録は大きく広がる。

 

 そういうことを書きだすとキリがなく、ここでは小生に関係ある陸海空について綴ってみることにする。

 

 陸に関しては10代の頃に行った東北・北海道一周自転車旅行で、期間は3ヶ月かかったが、北海道を出る時は雪に追われ、東北へ入っても周りは雪景色で、関東に入ってようやく雪がなくなった。

 

 当時は自転車で長期旅行をするのは珍しい部類で、どこへ行っても親切に扱われその体験が後のボランティア活動に対する下地になったと思うし、昭和に残る古い街並みを記憶に留めることが出来た。

 

 自転車に乗ることはその旅行後には手を離れたが、先年ラオス・ヴィエンチャンで生活した時は自転車で市内を移動したが、彼の地も自動車とオートバイの時代が怒涛の様に押し寄せていて、自転車に乗るのは酔狂な外国人か子どもくらいであった。

 

 その時、家人が自転車を使うために、タイ・ノンカイのショッピング・センターへ行って折り畳み自転車を購入し、しばらく使っていたがセブへ帰る時に梱包して飛行機で持ち帰った。

 

 そうして手間をかけて持ってきた自転車であるが、セブはまず暑過ぎることと運転が滅茶苦茶、無法地帯なので道路で自転車を走らせるには危険で、結局乗ることなくシートを被せて保管してある。

 

 陸の方では都度書いているように登山もしたが、箱根から東海道と1号線をたどって京都三条大橋まで歩いたことも記憶に残るが、歩いた当時は東海道の宿場町そのものが残っている所もあった。

 

 次に海の方だが、これはヨットを最初に挙げるが、ヨットには中学生の時から興味を持ち、荒川放水路の貸しボート屋のA級ディンギーで自己流で覚えたが、そのハイライトは横浜からハワイまで往復航海したことが挙げられる。

 

 この時は横浜からオアフ島を目指し、ホノルルのハーバーに入港し、滞在しばらくの後ハワイ諸島北のカウアイ島を経由して、小笠原を目指して出港するが、往航は向かい風で悩まされたが、復航は北東の貿易風に乗って快適であった。

 

 ヨットではしばらく相模湾を中心に開催されていたヨット・レースにもクルーで乗っていて、あわやこれまでと思ったほどの横倒しも経験したが、荒天の中にチラチラと見える灯台には勇気付けられた。

 

 クルーで乗っていたレース艇は当時でいう3/4トンというクラスの33フィート艇であったが、デザインが古いのでレースでは常に中位であったが、強風が吹くと滅法速かった。

 

 その船で乗った長距離レースでは鳥羽−三崎までのコースの『鳥羽パール』が最長だが、この時はクラスでは良い成績であったが、レース中は交代で眠るために起きた時は既に相模湾に入っていてフィニッシュは近かった。

 

 そうしてかなり夢中になっていたヨットであったが、セブに住むようになって縁が薄れ、それでもリゾートに置いてあるカタマラン・クラスを借りて何度か乗り回したが、それで縁は切れ、時々セブのヨット・ハーバーへ行って係留されたヨットを見るだけとなった。

 

 その代わり、セブではダイヴィングを家人と共に始め、ウェット:スーツやダイヴィング器材も一式揃えるが、当時はセブには器材を売る店がなく、わざわざマニラまで行って購入した。

 

 そういう時代なので、ダイヴィング人口も少なく毎週のようにセブの沖合で潜ったが、ダイヴィングの世界ではタンク何本潜ったかを自慢とし、1日にガツガツ何本も潜るようだが、そんなケチなダイヴィングではなく知人が専用の船を持っていたため、午前1本、午後1本のノンビリした潜り方であった。

 

 そうしてセブの海を中心に潜ったものの、日本から知人が来た10年近く前に潜ったのを最後とするが、驚くほど透明度が落ちていてこういう海でダイヴィングをするのも可哀想だなと思った。

 

 こうして、陸と海の遊びの経験は多いが、空に関しては関心は高いもののほとんどなく、直接関係したのはアフリカに住んでいた時に、知人が飛行機操縦の免許を取るために練習していて、その時、横に座った小生に操縦してみろと言われて、操縦ハンドルを握ったことぐらいである。

 

 この時は操縦ハンドルを前に押すと機体は下降し、手前に引くと上昇し車と同じように左右に回すとその通りに機体は動き、思ったよりも操縦は簡単だなと思った。

 

 空の経験はそれだけだが、30代の頃に友人とハンググライダーを作ろうと計画し、かなり資料を集めたがアルミなどの金属加工があって諦めたが、今では手軽なパラ・セーリングをセブの海でも盛んで見るが、利用してみようという気は起きない。

 

 空のスポーツといえば『スカイ・ダイヴィング』があるが、30年位前に知人の女性の趣味がスカイ・ダイヴィングと知って驚いたが、その様子はかなり思いっきりが居ると思ったが、痛快であることは確かなようだ。

 

 このスカイ・ダイヴィングに似た体験が、ミンダナオ島南部へ行った時に『ジップ・ライン』で味わっていて、この時は峡谷の上を横切ったが、遥か下に見える景色は空を飛んでいるような気がした。

 

 セブ島北の海に浮かぶ島の飛行場を利用して体験スカイ・ダイヴィングをやっているらしく、これはインストラクターに抱えられてダイヴをするが、これなどは面白い体験になるのではないかと思う。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:28
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(118) 12月15日のエッフェル塔

 イギリスには何度か行っているが、ヨーロッパ大陸へ行ったのは1990年代初め頃の一度しかない。

 その一度のヨーロッパ行きもドイツ、フランス、スイスの3ヶ国のみで、しかも仕事の出張であり物見遊山気分など全くなかった。

 この時は、ドイツ・ケルン市で開催された世界的な見本市に何度も通ったが、滞在先はデュッセルドルフでケルンには鉄道に乗って行き、駅近くから見える世界的に知られる『ケルン大聖堂』も、そばへ行くことさえなかった。

 デュッセルドルフはライン川の畔にある日本人駐在員の多い大都市だが、たまたまホテルはライン川に近い場所にあったが、そのライン川も夜間に川端から見ただけで、ラインの畔の街という雰囲気は味わえなかった。

 ドイツでの印象はアウトバーンをタクシーで走り、タクシーがベンツであったことと、アウトバーンではメーターが200
キロ以上を示し、後にも先にも自動車で200キロ以上で走ったのはこの時だけである。

 200キロを優に超しながら、走る車も少なく走行には全く不安や不安定さはなく、ベンツの優秀性とヒトラーの造ったアウトバーンの先見性にただただ目を瞠らされた経験であった。

 その後フランスへ移動するが、滞在先は映画のロケに使われたこともあるパリ郊外の城で、当時所属していた会社がゴルフ場付きの物件として買収していて、日本のバブル時代全盛時はこういったことは珍しくなく日本の会社は世界中で行っていた。

 ヨーロッパへ行った時期は12月でヨーロッパのその寒さには震え上がったが、石の建造物は特に寒く石の床から伝わる冷たさと空気の冷たさは格別で、日本の温か味のある木の文化とははっきり違うことを感じた。

 その滞在した城の周りは、ヨーロッパのどこでも見られる農地の広がる一帯であったが、早朝から村人の子どもや大人が痺れるような寒さの中、サッカーに興じている様子を見て、ヨーロッパのサッカーの強さを知ったが、日本でいえば早朝草野球と同じ感覚になるようだ。

 そういったパリ郊外にある城へ滞在中に、城を管理する人がパリ見物をしていないことを知り、気の毒になったのか車でパリまで案内してくれることになった。

 出発は夕食後であり、暗い中を走りパリ市街に入っても様子は分からず、シャンゼリゼ通りを走ったのは分かり、凱旋門もちらっと見たようだがシルエットだけで、真冬でもあり寒々した感じが強かった。

 そうして『エッフェル塔』も遠望したが、車で一気に駆け抜けた一度も停車したり下車することのない味も素っ気もないパリ見物で、この時はパリなどすぐに行けるとたかを括っていたが、その後チャンスは一度もない。

 次のスイスもジュネーブで滞在し、レマン湖を見下ろすリゾート型のホテルに泊まるものの全く観光見物とは縁はなく、会社の出張ということもあるが、つくづく人の金で旅行するものではないと思った。

 パリで車内から見えたエッフェル塔は『アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル』が設計し、その名前が付けられたのは知られるが、エッフェルの生まれたのが1832年12月15日である。

 エッフェル塔は1889年のフランス革命100周年を記念してパリで第4回万国博覧会が開催されることが1884年に決定し、その目玉として1889年竣工した塔で高さは300mある。

 それまで世界で一番高い建造物は1884年、アメリカ・ワシントンD.C.に完成した高さ169mのワシントン記念塔で、それを遥かに抜く高さとなり、構造は鍛鉄、リベット締めだから作業量も多かったであろう。

 フランスというのは万国博覧会開催が好きなようで『パリ』と冠した万国博覧会を、第1回の1855年から1947年まで計8回開催していて、先頃大阪で2度目の万博開催が決定した日本より遥かに多い。

 

 日本がパリ万国博覧会に参加したのは、1867年の第2回から日本の元号は幕末最末期の慶応で、明治になる直前で、そういった動乱期の国内事情ながら、幕府・薩摩藩・佐賀藩・民間から浮世絵や日本の特産品などが出展され、後のヨーロッパにおける『ジャポニズム』の端緒となった。

 

 1970年に開催された大阪万博はもちろん記憶はあるが、あれは同時期の安保反対運動を逸らすための愚民行事と思い、あんな人混みの中よく行く気になるものだと思ったが、新しもの好きの日本人には受け当時の政権の思惑通りになった。

 

 2回目の大阪万博では日本が万博自体を誘致していることも驚いたが、明らかに前回の東京オリンピックと同じ流れで、前回はそれなりの理念で誘致活動をしていたが、今回は大阪の経済浮揚だけを狙っていてそれがあからさまに出て当たり前のように受け取られていることが前回とは大いに違っている。

 

 ネット空間で情報や知識を得る現代になって、施設を造って人を集める旧態以前の万博など受け入れられるかどうかの議論もあって、2度目の大阪万博はかつての栄光をもう1度という世代が推進していて大丈夫なのかという気がする。

 

 大阪万博など成功しようがしまいが、巨額な金が大阪、関西圏に流れればよいわけで、こういうガメツイ万博もどうかと思うが、その結末は人口減少日本の悪足掻きになりそうだ。

 

 日本のエッフェル塔と称して1958年に建造されたのが『東京タワー』で、日本の戦後復興の象徴でもあり、高さは覚え易い333m、完成当時は世界一高い建造物として世界に名を馳せた。

 

 東京タワーは着工して1年半で完成させ、その早さにも驚くが構造は鋼の鉄骨をリベットで繋いでいて、とび職が命綱もなく高所で軽々と歩き回る様子には驚かされるが、当時は溶接技術は進んでいなかったのが分かる。

 

 タワーの工事中に実家近くにあった荒川放水路の土手から現場方面を見ると、その様子が遠望され、完成の暁には東京の街並みの向こうにスクっと顔を出した姿が印象的で、当時の東京は高い建物がなかった証拠だが、今は土手からは場所によっては見えなくなっているのではないか。

 

 東京の人間は東京タワーには昇らないといわれるように、関西へ転向した同級生が東京に来て東京タワー見物をすると言った時は、内心小馬鹿にする感じも抱き実際東京タワーには行く気もなかった。

 

 しかし、セブに住むようになって家人と日本へ行った時に初めて東京タワーの展望台に昇ったが、既に時代は高層ビルが周りに林立していて、イメージしていた一望の東京風景という感じはなかった。

 

 完成した当初はその武骨な感じからデザインはあまり評価は高くなかった東京タワーであったが、半世紀以上の歳月を刻んで、逆に風格のあるデザインに見られ、東京の風景に何気なく溶け込んでいて存在感は増している。

 

 その後造られた世界一高い『東京スカイツリー』も近くまで行ったが、混雑の中高い金を払ってまで昇ってみようという気にはならず、近辺で時間を過ごしたが、こういった高いだけの建造物は遠くから見るだけで良いのではとも思う。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:02
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(117) 12月14日は日本で初めて飛行機が飛んだ日

 1909年(明治42年)12月14日、東京代々木の陸軍練兵場(現在の代々木公園)において、日野熊蔵大尉がドイツ製のグラーデII型単葉機を操縦し、動力飛行機による日本初飛行が成功した。

 この日を日本で飛行機が飛んだ嚆矢とするが、公式には19日に徳川好敏大尉がフランス製のファルマンIII型複葉機で飛んだ日が『日本初飛行の日』とされている。

 この19日には日野も飛行に成功しているが、徳川の次であり14日の初飛行者の栄誉は認められず、2番手とされている。

 徳川好敏は徳川家御三卿の一つ、清水家の嫡男で、父親は伯爵であったが金銭的不始末で爵位を返上したため、この時の好敏には爵位はなく、後年陸軍航空分野の功績で男爵を授爵する。

 このため日本での初飛行は熊本出身の平民の日野ではなく、名門出の徳川にするという何らかの作為が軍内部で行われた可能性が高い。

 こういうご都合主義というのが日本の軍隊組織にはかなりあって、それは陸軍、海軍に共通し、無残な敗戦を招いたのもこの体質と関係はある。

 同じ航空畑の歴史的出来事では、1944年10月の海軍の作戦『神風特別攻撃隊』が知られていて、戦史では10月25日の敷島隊を率いた関大尉を神風特攻戦死の嚆矢としているが、実際はセブ基地から出撃した久納好孚中尉が21日に戦死している。

 次いで同じくセブ基地から出撃した佐藤上飛曹が関などより先に戦死しているが、久納は法政大学出身の海軍予備学生、佐藤は予科練出身で海軍の主流から見れば傍流になる。

 また25日の攻撃に関してもダヴァオから出撃した他の隊が、敷島隊より先に攻撃成功していて、敷島隊が攻撃成功の嚆矢とするのは間違いであることは史実ではっきりしている。

 こういったことがあからさまに行われたのは、神風特攻攻撃と戦死の1番手は海軍兵学校出身の関に栄誉を担わさせる、前線幹部と軍上層部の思惑からで、意図的に史実を捻じ、こういう例はいくらでもあるし、それを大々的に発表していたのが大本営発表で、報道機関も片棒どころか率先して加担した。

 

 さて話を戻すが、日野熊蔵は1878年に熊本県人吉市で生まれ、1898年(明治31年)に陸軍士官学校(10期)を卒業し、1918年(大正7年)に40歳の若さで退役、最終階級は歩兵少佐であった。

 

 陸軍士官学校(陸士)の起源は明治元年で名前や組織を変えて、昭和の敗戦で消滅するが、敗戦で卒業できなかった期を含めると61期まであった。

 

 日野は新陸士になってからの10期卒業生で、その前の9期には阿部信行・真崎甚三郎、本庄繁、松井石根、荒木貞夫といった敗戦後戦犯に問われた大将がずらずらと並んび、後輩の11期には後に元帥となる寺内寿一がいる。

 

 このように職業軍人として前途洋洋であった陸士出身の日野であったが、当人は発明家として名を残していて、中尉の時に発明した『日野式自動拳銃』が有名だが、性能は落ち軍に正式に採用とはならず、製作数も500丁程度であった。

 

 軍人でありながら発明家の日野は『奇人』とも伝えられるが、空を飛ぶこと自体奇異な時代に飛行機に目を付けたのはさすがであり、日本陸軍の航空機黎明期に活躍した一人者であるのは確かである。

 

 世界で初めて動力飛行機の飛行に成功したのはライト兄弟の『ライト・フライヤー』号で、1903年アメリカ・ノースカロライナ州の丘で4回の飛行に成功するが、それから6年後に代々木練兵場で日野や徳川が飛行成功しているから、新技術の伝播は非常に当時としては早かったと思える。

 

 世界初飛行に成功した『ライト・フライヤー』号は複葉機で、12馬力のエンジンを積み時速48キロで飛び、その高度は10メートルに満たなかったが当時の人には人間が飛ぶこと自体が驚異の飛行であったようだ。

 

 ちなみに代々木練兵場で飛行に成功した日野の搭乗機は単葉機仕様となっていて、残された写真を見ると自転車の上に翼を付けたような構造で、16馬力のエンジンで前方のプロペラを回し、最大時速は58キロとある。

 

 一方、徳川の搭乗機はフランス製で複葉機、50馬力のエンジンを積み、最大時速60キロを出すが、プロペラは操縦席の後ろにあり、機体の骨組みは松の木で作られ、その上にゴム引きの布を張ったというから時代が分かる。

 

 こうしてライト兄弟の初飛行以来、航空機の発達は進むが、初飛行からまだ100十数年しかたっていず、その進歩の速さに驚かされる。

 

 これまでに色々な飛行機に乗っていて、世界最大の2階建てエアバス380にも登場しているが、やはりボーイングのジャンボ機は印象深く、初めて乗ったのは1980年代初めの成田−マニラ間のパキスタン航空便で、機内に入ってその広さに驚かされ、こんな大きな機体が本当に飛ぶのかと思った。

 

 実際、離陸を始めるとその大きな振動に連れて長い主翼が上下に揺れている状態を窓から見て、思わず目を閉じたが飛行状態に入れば大きな客室内は乗客も少なかったために快適ではあった。

 

 そのジャンボ機がマニラ国際空港への着陸態勢に入り、通り過ぎるマニラ首都圏の明かりが宝石のように輝き、これはこれで今まで見た夜景では最高の内と思っているが、いざ空港に着地した時、ドカアーンと大きな音を立ててこれまでかと思ったが、これは操縦士の着陸が下手であったことが、その後ジャンボ機を多く乗るようになって分かった。

 

 飛行機の専門家に言わせると、ジェット機は推力だけが頼りなので、エンジンが止まればそのまま落下するしかないらしいが、プロペラ機は浮揚力が残っていて、エンジンが止まってもユラユラと地上に生還できるとある。

 

 そういったエンジンが止まるような事故は今まで遭っていないが、プロペラ機に搭乗すると何となく安心した気分になるのは、前述の専門家の意見もあるが、確かにプロペラ機は安心する感じは強い。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:13
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